100辞書・辞典一括検索

JLogos

13

水主神社
【みずしじんじゃ】


大川郡大内(おおち)町水主にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は倭迹々日百襲姫命。水主宮・大水主大明神などと称した。宝永2年の「大水主大明神社旧記」の「御垂迹元趾事」には,宝亀年間の創祀とある(香川叢書)。また「全讃史」および社伝では,倭迹々日百襲姫命が8歳の時居を水主に定め,水徳自在の神として大水主大明神と称したという。しかし地形・社名・祈雨伝承などから当初は水神を祀ったものと考えられ,これに百襲姫の伝承が付加されたものと思われる。東讃地方には百襲姫の伝承が多く,大和朝廷との関係を解明する1つの手掛かりとなる。承和3年11月7日「水主神」として従五位下に昇叙したが(続日本後紀),これは讃岐での神階昇叙の初出である。貞観8年4月9日には従五位上(三代実録),天慶3年には藤原純友の乱の平定祈願により正五位下となった(長寛勘文/群書26)。「延喜式」神名帳大内郡条に「水主神社」と見える。寿永年間の源平争乱の際には,平教経・源義経等源平両氏より戦勝祈願があったと伝える。当社には平安末期書写の内陣の大般若経に対して,外陣の大般若経といわれる大般若経600巻がそろっている(国重文,付経箱60箱)。また応永19年8月京都北野社で一切経供養が行われたが,その奥書には「大水主社」として当社の名が散見し(大日料7‐16),若王寺(大川郡白鳥町与田山)所蔵の大般若経の奥書にも当社名を冠した筆者が多数見えるなど,大般若経等の写経活動に熱心だったことがうかがえる。社領は,室町期のものと推定される大般若経箱底書(誉水村史)によれば,保安4年8月3日の神主神人等申状に,永久2年「留守所ノ裁判」の際の社領2町2反60歩と見え,保安2年平前司の時10町に成されたと記され,また天承2年2月2日・同4月19日神人綾利弘等申状案に舂田24町5反とある。いずれも原文書は伝わらないが,与田・入野両郷を割き分け,おそらく国司によって寄進されたものであろう。底書によればこの社領はもと奥野御領といい,おそくとも建長4年頃には大水主荘と号されていたらしいが,ほかに史料がなく確認できない。また至徳3年の大般若経箱造営の時および文安2年の経巻修復の時の勧進奉加帳が底書に書き写されているが,それに武吉村分,岩隈並別所分,中村分,大古曽分,原分,宮内分,北内分,焼栗分などの地名の記載があり,その多くが大字水主内の小字名に比定できる。その地域がほぼ大水主社領の領域であろうと思われる。このほか大般若経箱底書には文安元年の神人座配,また大水主大明神社旧記(香川叢書)には嘉吉2年の供僧座配が記されている。本来別当寺は虚空蔵院(現与田寺,大内町)だったが,室町期に末寺円光寺(大内町)に替わった。社殿は嘉禎3年・貞和2年・応永元年・同31年・文明6年・慶長4年に造営されたという(大水主大明神旧記)。元和2年までの社殿維持には大内郡内の資糧を充てたといわれるが,元和8年生駒氏家臣大山善左衛門は水主村内の様松・石風呂あたりで30石分の田畠を耕作し,当社の維持経費に充てるために免税地としての認可を藩に求め,同年9月13日付生駒藩奉行連署状でそれが認められている(大山家文書/新編香川叢書)。その後社領は35石に増加されたらしく,寛永17年生駒高俊改易の時の讃岐国中寺社領高書上写には「高三拾五石 水主宮領」と見える(覚城院文書/同前)。大山家はこの社領に対して実質的な支配権を有していた。「大山家身分記録」所収の棟札によると,大山善左衛門とその子孫が寛永17年・寛文4年・貞享2年・元禄5年・享保18年に施主として社殿造営に参画している。しかし新藩主として松平頼重が入封すると社領は没収され,氏子は当社を離れ社家・僧坊も退転したという(讃岐国名勝図会)。これは神社勢力として白鳥神社(白鳥町松原)を優遇するという頼重の神社政策によるものだったといわれる。そのため大内郡全域を区域としていた氏子も分かれて白鳥神社に付されるなどしたが,宝永6年3代頼豊の時に従前の35石が認められたと伝える。近世には境内に建てられた大水寺が別当を務めた(御領分中宮由来/新編香川叢書)。大水寺は水徳山宝珠院と号し,虚空蔵院の末(香川叢書)。宝永6年に社領35石のうち15石が大水寺取分として分配されている(大山家文書/新編香川叢書)。明治維新で大水寺を廃し,明治5年郷社,同36年県社に列格。木造神像(主祭神倭迹々日百襲姫命,脇宮祭神倭国香姫命・大倭根子彦太瓊命の3体)・鎌倉期の木造狛犬・木造男神坐像・木造女神坐像・雷文螺鈿鞍(平安末期)が国重文のほか,木造狛犬・文安5年奉納の木造獅子頭が県文化財。例祭は10月9~10日。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199839