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屋島東町
【やしまひがしまち】


(近代)昭和15年~現在の高松市の町名。もとは屋島町屋島。屋島山上および屋島山麓のほぼ東側に立地し,町名の由来は,町制時の大字名のうち,大字の置かれた位置による。昭和15年末の世帯数282・人口1,467(男686・女781)。第2次大戦が拡大するにつれて,戦場へ送られる兵士が増加して,同19年になると,世帯数281・人口1,300(男537・女763)で特に男子人口の減少が目立つようになる。同20年7月4日未明,米軍機によって高松市は空襲を受け,旧市の約8割を焼失した。当町はほとんどが,戦災を免れたため,罹災者や,海外引揚者・復員軍人などによって,同20年末には,世帯数439・人口2,124(男934・女1,190)と急激に増加する。同22年屋島国民学校の屋島分校は,屋島小学校屋島分校と改称され,中学生は,屋島小学校本校を間借して創設された新制の屋島中学校(屋島西町)まで通学する。同24年英国詩人エドマンド・ブランデンは屋島に登り即興詩をのこす。同25年になると,第2次大戦で昭和19年以来休止していた屋島ケーブルが再開され,乗客も急増し,新春の初詣,夏の山上納涼大会などが催される(琴平電鉄60年のあゆみ)。同年には世帯数409・人口2,064(男991・女1,073)と減少傾向をみせて,旧市の戦災復興のきざしがみえはじめる。昭和30年代からは,高松市の住宅地域として人口も急増,経済の国際化が進むにつれ,安い外国塩に近づけるため,イオン交換樹脂膜法による製塩によって,当地の塩田(柏納屋浜・立石浜)も昭和46年廃止され,その廃止塩田跡地の住宅地化によって,人口が増加する。屋島小学校分校は,同57年独立して,屋島東小学校となる。世帯数・人口は,昭和35年370・1,870(男912・女958),同45年453・1,889(男911・女978),同55年602・2,188(男1,069・女1,119)。同年の専業農家戸数15・第1種兼業農家戸数5・第2種兼業農家戸数119(1980年世界農林センサス)。昭和27年の当町内の溜池数168(県溜池台帳),同55年には,その数が121に減少して住宅化が進む(市ため池調査)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199980