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鷲山城跡
【わしのやまじょうせき】


綾歌郡国分寺町柏原(かしはら)・坂出(さかいで)市府中町にまたがる鷲ノ山(標高322m)にある新名氏の山城跡。鷲ノ山は国分寺盆地を南西から一望に見下ろし,東の堂山に対峙する。山頂部は最高所を中にして北西(316m)および南東(301m)の小峰がくの字形に短く連なり,周囲に急峻な斜面と深谷の要害地形が巡る。「南海通記」に「此山ハ土高・虎丸・鷲ノ峰トシテ国中ニ三ツノ険要也。然レドモ分内狭フシテ大身ノ要城ニナラズ。新名氏コレニ居ス」とある。新名氏は藤原氏日野家の流れを引く藤原光業に始まる。光業ははじめ高田姓を称えて三野(みの)郡の詫間氏に仕えたが,貞治元年細川頼之が南朝方に走った細川清氏を高屋城(坂出市高屋町)に攻め破った(白峰合戦)時に戦功があり,阿野(あや)郡新居郷の国分・柏原・新名に封を受けた。応安元年当地に居を移して新名氏を名乗り,鷲ノ山に築城したという(讃岐国名勝図会・新名家記)。居館は山の北東麓より750m余,中新名の舌状台地(現国分寺団地の南)に所在したとされており,付近に城屋敷・蔵の前・蔵元・濠下・石橋等の屋号や地名が残っている。戦国期には新名内膳光景が羽床氏に属して動いた。天正6年羽床氏の呼びかけで滝宮・福家氏とともに香川民部少輔の拠る西庄(にしのしよう)城(坂出市西庄町)攻めに加わり,翌7年に羽床氏が土佐長宗我部元親に屈すると,これに従って元親に降った(南海通記)。「全讃史」は鷲山城について「天正十一年,土佐元親内膳を殺し,入交蔵人をして之に居らしめ,以て近郡の鎮と為せり」と記し,内膳殺害の件は明らかでないが,当城が長宗我部の讃岐攻略の城砦の1つになったことを伝えている。城跡は3峰にわたって存在する。最高所には平面ムスビ形の1郭,北西峰の頂部は楕円形のかなり広い郭で,すぐ北側に三日月形の小郭が付き,下って幅2.5mほどの堀切りを配し,さらに2段の郭をつないで,その下方が狭い岩場地形となる。対して南東峰の頂部に不整形な郭があり,南側に2段の小郭が付く。北東方面を大手とする城構えであろう。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7200085