浮穴郡
【うけなぐん】

旧国名:伊予
伊予国の郡名。伊予国のほぼ中央に位置し,大部分が石鎚(いしづち)山脈西部の山間部を占め,西は一部が伊予灘に面する。東北の郡境にそびえる石鎚山をはじめ1,000mをこえる山々は30余を数え,平均高度700~800mの高冷地。中央を仁淀川上流の面河(おもご)川が流れる。北は新居(にい)・周布(すふ)・久米の3郡,東と南は土佐国(高知県),西は伊予郡,南西は喜多・宇和の2郡にそれぞれ接する。近代以前の郡域は,現在の上浮穴郡全域と松山市・伊予市・伊予郡の一部にあたる。郡名の初見は天平19年の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」で,法隆寺の伊予国14か所の所領の1つとして「浮穴郡一処」とある。「続日本後紀」に「仁明天皇承和元年五月丙子,伊予国人正六位上浮穴直千継,大初位下同姓真徳等,賜姓春江宿禰,千継之先大久米命也」と伊予国に浮穴直千継という者のいたことを記す。浮穴氏については同書同年に「河内国若江郡人浮穴直永子,賜姓春江宿禰」とあるので,河内(大阪府)・大和(奈良県)地方に蟠居していた浮穴氏の一族が海を越えて伊予国に住みつき,郡名の起源となったものと考えられる。「和名抄」に「浮穴」と記して「宇城安奈(うきあな)」と訓じてあるが,鎌倉中期の「拾芥抄」には「浮名郡」とあり,「うきあな」が「うけな」に転訛したものとみられる。現美川村の上黒岩岩陰遺跡は縄文草創期の住居跡で,最古の層は1万2,000年前とされている。当郡はこのほか10数か所の縄文遺跡が発見されるが,弥生遺跡は数少ない。山間地の生活条件は縄文時代には適合したが,弥生時代には適しなかったためであろう。
(古代)「三代実録」に「清和天皇貞観八年十月廿三日甲午,伊予国浮穴郡置少領一員」とあり,当郡はこの時点で小郡から下郡へと一階上げられた。
(中世)「吾妻鏡」の元久2年閏7月の条に河野通信配下の御家人32人の名があげられているが,そのなかに,高茂(浮穴社大夫),重仲(井門太郎),山前権守・同弟,高盛(久万太郎大夫),同弟,永助(久万太郎),信忠(寺町五郎太夫),時永(寺町小大夫),忠貞(寺町十郎)らの名が見え,また田窪太郎高房の名もある。
(近世)当郡の領主は,天正13年小早川隆景(伊予1国35万石),同15年戸田勝隆(大津=大洲,地蔵ケ嶽城主16万石)を経て,文禄3年東部(のち松山藩領)は加藤嘉明(松前【まさき】城主6万石),西部(のち大洲藩領)は藤堂高虎(板島=宇和島,城主7万石)となる。
(近代)明治4年の廃藩置県によって同5年に石鉄【せきてつ】県・神山県の支配となり,同年10月の大区小区制の実施では旧松山藩領浮穴郡久万山分は石鉄県第17大区(1~13小区),里分は第18大区(1~8小区)に配されたが,旧大洲・新谷藩領は神山県第9大区4小区,第10大区(1~5小区),第11大区(1~2小区)に属した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7200430 |





