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宇和荘
【うわのしょう】


旧国名:伊予

(中世)鎌倉期から見える荘園名。宇和郡のうち。寛喜3年3月27日の将軍藤原頼経安堵下文案(小鹿島文書/編年史2)がその初見。当荘の成立過程については諸説ある。第1に天平勝宝元年5月に伊予国分寺(越智郡)へ知識物を施入して外大初位下から外従五位下に昇叙された宇和郡の豪族(郡司層か)凡直鎌足の保有した私営田説,第2に承平6年6月に日振島(宇和島市)に拠って叛した藤原純友の私営田説,第3に藤原純友討伐に功のあった警固使橘遠保の子孫,橘薩摩守による権門への寄進説等があるが,定説はない。宇和荘成立以前に,その先駆的形態があったかもしれないが,宇和荘という呼称はない。正安4年8月の「室町院領目録」(八代恒治氏所蔵文書)に後高倉院法華堂領として「伊与国宇和庄 西園寺」とあり,鎌倉末期に至るまでに当荘本家職は,後高倉院(高倉天皇子,守貞親王)から室町院(後堀河院皇女,疇子)へと伝領され,その領家職は,公家衆の西園寺家へ伝えられたとみられる。皇室領荘園としての当荘の成立年代は不明だが,後高倉院の死去した貞応2年5月14日以前に遡及できる。「吾妻鏡」嘉禎2年2月22日条によると,藤原純友を討滅した橘遠保の子孫が宇和郡に居住し,宇和郡を相伝したとの記事がある。橘遠保が朝廷から宇和郡を恩賞として賜与されたということは信じがたいが,その子孫が宇和郡を開発して私領化し,院政期あるいは平氏政権下に橘遠保の子孫という橘公長・公成(公業)父子らが平清盛の三男知盛の家人であった(吾妻鏡)ので,同氏が既存の開発地を権門の平氏,さらにそれに連なる皇室へ寄進して成立したとみたほうが自然である。西園寺家領としての当荘の成立は,上掲の「吾妻鏡」に見えるとおり,嘉禎2年以降であろう。承久の乱で,鎌倉幕府と結んで活躍した前太政大臣西園寺公経の懇望により,橘薩摩守公業の宇和郡知行(宇和郡地頭職)は停止され,それ以来,地頭不設置の西園寺家領となったとみられる。鎌倉末期の正安年間成立と推定される「伊予国内宮役夫工米一向未済所々注文」(御裳濯和歌集紙背文書)に「宇和庄三百一丁六反三百歩」とあり,その規模の概要が知られる。成立期の荘域は明らかでないが,先の初見文書に「宇和庄小立間重貞名」とあり,また元応2年に等妙寺(北宇和郡広見町)を開いた理玉和尚は「入宇和庄,開等妙寺」(歯長寺縁起)とあるので,鎌倉期には,当荘は宇和盆地(ただし石野荘を除く)から立間・三間地域,津島地域を包含した広大な地域であったろうと推測される。室町期には,諸史料を総合すると,当荘は永長(ながおさ)郷・立間(たちま)郷・三間(みま)郷・吉藤(よしふじ)郷・久枝(ひさえだ)郷・成藤(なるふじ)郷・須智(すち)郷・黒土(くろつち)郷・板道間(いたじま)郷・来村(くのむら)郷・津島(つしま)3か郷などの諸郷から成り,さらに各郷内に諸村が付属していた。たとえば,須智郷内野村(濃村)・同北川村・黒土郷内貞延村・同国遠村,同鑰山村などと見える。すなわち,当荘は,室町期には現在の八幡浜市の南部から東宇和郡・北宇和郡・宇和島市・津島町域にわたる広大な領域をもったと考えられる。荘経営の実体は不明なところが多いが,鎌倉末期の元徳年間,西園寺家から立間郷をはじめ当荘内の諸郷の代官職を預って所務したという開田善覚禅門(宇和町皆田出身),徳治2年に津島の八幡宮へ願文を掲げた右馬助三善朝臣散位某は,いずれも当荘の雑掌と考えられ,前者は在地土豪,後者は京都の西園寺家家司であり,多彩な荘経営が行われたらしい(歯長寺縁起・高田八幡神社文書)。建武新政下の建武2年7月10日,中先代の乱のとき誅殺された西園寺公宗の所領が収公され,その弟の公重に与えられている(西園寺家文書)。そのなかに宇摩荘(伊予三島市)と共に当荘も見える。南北朝期,西園寺家が北朝方の実俊(公宗の子)と南朝方の公重に分裂すると,当荘は南朝方の公重,さらにその子実長へと伝領されたが(西園寺家記録13),文和2年11月30日,公重は北朝方より所領を没収され,実俊へ与えられた(西園寺家文書・柳原家記録163)。しかし,当荘の実質的な支配権は,南朝方に属して伊予へ下向土着した公重の子孫に掌握されたとみられる。「忽那一族軍忠次第」に懐良親王に随従して伊予に下向した四条中将某を忽那氏が宇和荘まで再度迎えたという記事があり,また南北朝末期に橘・越智(津島氏)らの津島方面の在地土豪が南朝年号を使用した記録を残しており,当荘が南朝の勢力基盤となっている。室町期には,当荘の領有権は,京都の西園寺宗家の手に帰したらしく,永享年間にその代官職をめぐって,宇和西園寺氏のうち,松葉熊満丸と立間中将公広が争い,結局,嘉吉3年6月19日,立間中将公広が代官職に補任されている(管見記所収公名公記)。以後当荘は,宇和郡知行をした西園寺氏とその一族によって保持された。文明14年2月10日,宇和西園寺氏の一族来村殿西園寺氏から京都の西園寺氏へ書状が遣わされ,両者の交流がみられる(管見記所収実遠公記)。当荘は,戦国期まで存続したと思われるが,解体期の実相は全くつかめない。なお荘号は,近世初頭まで残存している。




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「角川日本地名大辞典」
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