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東宇和郡
【ひがしうわぐん】


(近代)明治11年~現在の愛媛県の郡名。明治11年12月16日宇和郡を東・西・南・北の4郡に分割して成立。西は宇和海に面するリアス式海岸であるが,海岸線はわずかで,郡域のほとんどが内陸部に位置する。内陸部には雨包山・御在所山・鏡駄場・城が森・横岳・歯長峠・法花津峠・ノボリタテ・杭瀬御在所山などの山脈支脈が複雑に入り組み,ほとんど平地はみられないが,宇和町地域は南予最大の宇和盆地が開け,ほかには野村町地域に小規模な盆地がみられる。河川は海岸部の小流を除いては,いずれも肱川の上流をなす支流で,宇和川・岩瀬川・稲生川・富野川・黒瀬川・野井川などが流れる。これらの諸川に沿う狭隘な河川段地に集落が発達している。近世の73村を含み(編年史10),成立時の村数は70(愛媛県町村沿革史)。ほぼ旧宇和島藩の多田・山田両組の村々で,成立直前には愛媛県第18大区に属していた。郡役所は卯ノ町(現宇和町卯之町)に設置。明治22年市制町村制が実施され,宇和町と遊子川・土居・高川・魚成・多田・中川・笠置・山田・上宇和・下宇和・田之筋・中筋・渓筋・野村・貝吹・横林・惣川・俵津・狩江・高山・玉津の1町21か村となる。大正3年渓筋村のうち大字四郎谷が野村に編入。同11年上宇和村が宇和町に編入し,また野村が町制を施行。昭和4年山田村と笠置村が合併して石城村となり,2町18か村となる。同18年上浮穴(かみうけな)郡浮穴村のうち大字小屋が惣川村に編入される。昭和29年には遊子川・土居・高川・魚成の4か村が合併して黒瀬川村となり,多田・中川・石城・下宇和・田之筋の5か村が宇和町に編入。同30年には中筋・渓筋・惣川の3村と貝吹村・横林村の各一部が野村町に編入,俵津・狩江の2か村が合併して豊海村となり,玉津村は北宇和郡吉田町へ,貝吹村・横林村の各一部は喜多郡肱川町へ転出し,2町3か村となる。昭和33年には大洲市の鳥坂・正信地区が宇和町に編入,豊海村と高山村が合併して明浜町となり,34年には黒瀬川村が城川町と改称。以後宇和・野村・明浜・城川の各町の4町からなる。世帯・人口は明治37年1万994・5万4,140,大正10年1万1,045・5万8,229。昭和30年の人口は7万62。当郡の交通事情は,宇和盆地においてはすでに近世に,宇和島~大洲~松山に至る幹線街道が四国霊場巡拝路(宇和町には43番札所明石寺がある)・金毘羅参詣道として整備され,そのほかの野村・八幡浜・吉田・三瓶方面に至る道路も交錯していたが,山間地域では明治・大正期においても「道路険悪,交通の不便言ふべからず」(愛媛県誌稿)の状態であった。道路の拡張整備を得て近代的道路となるには,昭和40年代をまたねばならかった。鉄道は昭和16年7月,卯之町~宇和島間,20年6月に卯之町~八幡浜間が開通して,ようやく予讃線が全通した。産業は農業が1位を占め,大正2年では人口の78%が農業戸数であった。当時の米収穫高は7万5,149石で宇和4郡中1位を占め,郡内では主産地の宇和盆地についで野村・魚成・土居の順である。明治38年にはじまった永長地区(現宇和町永長)の耕地整理は,県下のトップをきって行われ,宇和盆地は県下の耕地整理事業の先進地である。大正2年の麦収穫量は2万7,950石,甘藷産額299万1,341貫でこれらの主産地は海岸部である。しかし,昭和になると明治・大正期にはかえりみられなかった柑橘類の栽培が盛んになり,海岸部の耕して天に至る麦・甘藷畑は,すべて柑橘畑に変貌した。漁業は海岸線が短かいために産額は多くないが,大正期には漁獲の大半を鰮が占め,多くは乾鰮として阪神方面へ出荷した。しかし,第2次大戦後は沿岸漁業の不振に伴い,真珠・ハマチの養殖に転向した。海岸部は水不足になやまされ,柑橘畑もほとんど天水に頼る不安定な経営状態にあったが,この解消と,肱川の下流地域の治水の安全を期するために,上流の野村町と宇和町との境域に,野村ダムが建設され,昭和44年には貯水開始した。集水面積168km(^2),湛水面積0.95km(^2),湛水延長6.7km,これによって宇和島・八幡浜2市と7町の柑橘畑約5,670haに,年間最大2,780万m(^3)の用水補給と1日最大4万2,300m(^3),年間8,895万m(^3)の水道用水(給水人口約15万人)を供給することが可能となった。かつては養蚕・製糸業,および楮・泉貨紙類製造が盛んで,養蚕は大正2年調で,桑園1,218町・飼育戸数9,663・掃立数9,163枚・収繭1万8,639貫・製糸戸数65・産糸2,937貫・価額15万1,991万円。北宇和喜多両郡とともに県下3大養蚕郡と称されたが,昭和53年には養蚕戸数866に激減している。泉貨紙類も近世から山間部の重要な産業であったが,大正以降次第に衰退し,現在は壊滅に近い。石灰業も当郡を代表するもので,大正2年には製造戸数180・カマド数205・産額750万貫・価額9万9,286円で,県下1位を占めたが,昭和54年には最後まで残っていた工場も閉鎖した。第2次大戦後の産業としては,乳牛の飼育と椎茸の栽培がある。宇和町に郡立農蚕学校の設立をみたのが明治41年,大正7年県立となり宇和農業学校と改称。大正11年には同町に県立東宇和高等女学校が設立され,2校は昭和24年統合されて,現在の宇和高等学校となった。同年野村町に野村高等学校,土居地区にその分校が設立された。ほかには宇和ろう学校・養護学校が宇和町に設立されている。医療面では宇和・野村両町立病院がある。観光面では,宇和町域の法花津峠の宇和海展望の景観が足摺宇和海国立公園圏にとり入れられ(昭和47年),鹿野川ダムの人造湖を中心とした自然景観が肱川県立自然公園内に(昭和35年),同町大野が原カルスト景観が四国カルスト県立自然公園に(昭和39年),明浜町地域のリアス式海岸美が宇和海県立自然公園に(昭和40年),それぞれ指定されている。




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「角川日本地名大辞典」
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