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松山城下
【まつやまじょうか】


旧国名:伊予

(近世)江戸期の城下町名。松山平野のほぼ中央,石手川の右岸に位置する。文禄・慶長の役で戦功のあった加藤嘉明は,文禄4年伊予郡正木(松前)城に入城,ついで関ケ原の戦いの戦功で慶長5年11月,伊予国20万石に封じられ,松山平野中央の独立丘勝山に築城の工を起こすこととなった。勝山の地は古代の味酒郷の地であり,湯山川(石手川)の乱流が西流し,災害が少なくなかった。嘉明は20万石にふさわしい新城下築造の計画をたて,足立重信による河川改修後の慶長7年正月に城郭築城にとりかかった。勝山の頂上に本丸,南麓に二の丸・堀之内(三の丸を含む)を置いた。翌8年嘉明は家臣団および正木城下の町民と共に当地に移転し,松山と称した。城郭はのちの寛永4年までに竣工した。城下町割りは築城と同時の慶長7年から行われ,「松山叢談」によると,まず松屋町・鶴屋町から地割りが始められ,次に亀屋町・竹屋町を割り,30町分が順次完成した。うち20町の地割りは嘉明自身が,あとの10町は重臣佃十成が行ったという。ただし,元禄期の記事を載せた「松山町鑑」に,「栄町鶴屋町と改る元文二巳二月」と見えるので,地割り当時は栄町であったと思われる。武家屋敷は松山城下を囲んで配置され,重臣の屋敷は城山の南麓地域に集中した。町屋は北西部に古町(こまち)30町が置かれた。城北の地には,道後地域(旧河野氏城下)などから天徳寺・竜穏寺・来迎寺などの諸寺を移転して北辺の守備とした。加藤氏は城下建設途中の寛永4年2月,会津若松(福島県)に転封となり,かわって出羽国(山形県)上山(かみのやま)から蒲生忠知(ただちか)が就封した。日野町(のちの水口町)は蒲生氏の故地近江国(滋賀県)日野からとったと伝える。寛永11年8月忠知は京都で死去し,蒲生氏は断絶,翌7月まで大洲藩主加藤泰興らの在番時代となった。寛永12年7月,伊勢国(三重県)桑名藩主松平定行が松山15万石で入封した。松平氏はもと久松と称し,三河の開発領主であり,徳川家康の母伝通院夫人が再婚した家にあたり,定行と家康は異父同母弟の間柄で,松山藩は親藩であった。定行は城郭の修築を行い同19年に完成し,現在の松山城の規模となった。城下の様子は記録が少ないので明確には述べられないが,元禄年間の記事を載せた「松山町鑑」によると,城下を古町・外巡(そとまわり)町・水呑町の3区に分け,城下西部の古町は高級商人や特権商人が多く居住し,新町・上之棚町・呉服町・鍛冶屋町・府中町壱丁目・同弐丁目・畳屋町・北上紺屋町・北下紺屋町・本町壱丁目・同弐丁目・志津川町・魚町壱丁目・同弐丁目・米屋町・紙屋町・栄町・北松前(きたまさき)町・中松前町・松前半町・南松前町・細物町・西町・北利屋(きたとぎや)町・西紺屋町・樽屋町・風呂屋町・檜物屋町・南利屋町・松屋町の30町で構成されていた。古町は建設当初から町人町として形成されたところで,年貢は免除されていた地域が多い。彼らは各種の町役を負担しており,府中町にある町奉行所に隣合って大年寄などのいた町会所があり,江戸中期までは松山経済の中心的な地区であった。城下南東部の外巡町は同じく「松山町鑑」によると,道後町・今市町・木屋町・北古萱町・北新萱町・本町筋今町・魚町筋今町・南古萱町・江戸町・袋町・南新萱町・出淵町・藤原片町・藤原魚町・藤原半町・藤原末之町・河原町・竹鼻町・大唐人(おおとうじん)壱丁目・大唐人中之町・大唐人上之町・小唐人(ことうじん)町・清水町の23町で,唐人町地区は江戸中期以後,商業が活発となった。水呑町は城下周辺部に配され,村落との接点にあたり,「松山町鑑」では木屋町末水呑町・三津口町・松屋町末水呑町・宮之前町・藤原西町・永町壱丁目・永町弐丁目・永町三丁目・弐百人水呑町・河原町末新立町・大唐人北横町・大唐人末新立町・小唐人南片原町・小唐人北水呑町・小唐人東水呑町・壱万町・水口町・清水末町の18町から構成されていた。総計71町を数えた町々は元禄7年の町鑑によると11組に分けられ,手工業者である職人町は,畳屋町・利屋町・鍛冶屋町・紺屋町・檜物屋町・細物町などに集住し,商人町としては呉服町・萱町・米屋町・木屋町・魚町・紙屋町などの町々であった。各町組の町数と家数は新町組(6町)本家217・借屋190,府中町組(7町)本家226・借屋330,本町組(6町)本家175・借屋109,魚町組(7町)本家204・借屋229,松前町組(7町)本家209・借屋191,松屋町組(7町)本家223・借屋260,南古萱町組(6町)本家165・借屋172,藤原町組(6町)本家140・借屋171,河原町組(6町)本家415・借屋684,唐人町組(9町)本家413・借屋514,壱万町組(4町)本家177・借屋122,以上合計本家2,575軒・借屋2,972軒であった。なお,町鑑には各町組ごとに洪水や出火の節に人足として出す人数や道具類の取り決め,藩主の狩猟の時に出す勢子の数などの負担もみえる。江戸期を通じて侍の人口は上士500,下士1,100・卒2,900の計4,500人内外で一定していた。町屋の人口は元禄7年1万6,604,寛政元年1万1,528(御巡見使御尋之節御答書),文政3年1万1,598(八蔵屋文書)。道路は古町の繁華街である本町で2間1尺,他の道幅も大体2間内外であった。1軒の間口は3~10間,奥行は10間ぐらいが普通であった。伝馬役は古町にのみ課され,元禄2年で駄賃・伝馬数78,橋は藩の経費によるもの27か所,町方の架橋は90か所。天明4年の「惣町中諸商人并無商売人軒別高寄」では,全城下総軒数は4,251軒と元禄年間よりは減少しているが,職種はタバコ屋101軒・穀物屋83軒・豆腐屋83軒・樽屋77軒・鍛冶屋67軒・水油屋44軒・質屋35軒・畳屋32軒などとあり,医者は55軒・大工188軒など職種は110種を超えた。日雇い・奉公人・出商売も多く,全城下の4分の1を超えている。町方の支配は府中町にあった町奉行所が行い,大年寄が町政の最高機関で,城下の町内人別改めをはじめ,奉行の諸事を町方へ伝える一方,町人の諸願を藩や奉行に上申する役であった。6名の大年寄ははじめすべて古町から選ばれたが,寛政年間には半数を外側出身の有力町人が占め,化政期には4名が外側から出る慣例となり,総町の実権は古町から外側に,町の中心も外側に移った。城下の周り6か所に公儀番所を置き,城下の出口を固め,自身番所は各町内に1か所もしくは2町で1か所あり,火番所は75か所であった。火災は明和7年12月26日の夜に大火があり,武家屋敷301軒・商家750軒を焼失,天明4年元旦に落雷があり,天守閣などを全焼,嘉永7年に再建された。町名の改称(風呂屋町↑岩井町,袋町↑塩屋町など)も数多く,合併などもあり,幕末まではかなりの変化があったとみられる。明治4年に廃藩置県,同年11月松山県庁が開設し,同5年2月には石鉄県庁となった。同6年2月22日,愛媛県の創立と同時に県庁所在地となった。明治5年の戸数7,821。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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