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和霊神社
【われいじんじゃ】


宇和島市丸之内にある神社。祭神は山家清兵衛公頼。公頼は陸奥仙台藩主伊達政宗の家臣で,慶長19年12月,政宗の長子秀宗が宇和郡の領主になると,翌年1月宇和島に来て,秀宗の入部の準備に当たった。秀宗は入国当時,宇和島藩の草創のため政宗から多額の借金をしており,その返済方法をめぐって藩内の意見が対立した。結局,公頼の献策により10万石のうち3万石を政宗の隠居料として割くことになった,藩は財政難に苦しみ,公頼は反対派から,秀宗に異心ありとして讒訴された。元和6年6月晦日夜,刺客に襲われ一族が斬殺された。「御仕置」「御成敗」という言葉が用いられており,秀宗の密命による事件と見られる。事件後,寛永9年金剛山正眼院で秀宗夫人桂林院殿の3回忌執行中,大風が吹いて本堂の梁が落ち,玄蕃が圧死したのをはじめ,事件の関係者と目された人々が海難や落雷で次々と変死したり,2代藩主宗利の男子も夭逝したりした。藩主をはじめ人々はこれを公頼の怨霊の祟りとして恐れた。また慶安2年の大地震・寛文3年の大旱魃・同6年の大風雨・享保の風水害も怨霊の祟りとされた。そのため,最初,森安の八面大荒神の社隅に小祠が建てられて児玉明神と称し,公頼の霊を祀った。承応2年6月24日,公頼の33回忌に藩は公頼の冤罪を証明し,京都吉田家から奉幣使を迎えて檜皮杜に山頼和霊社を建てた。同社は明暦2年6月に向山(むこうやま)へ,寛文7年6月に森安へ移され,元禄13年11月には吉田家から明神号を授与され,享保13年和霊大明神と号し,同16年3月,現在地に遷宮され,5代藩主村候が崇敬して大社を建立した。「宇和日記」には,6月24日の祭礼・神楽,霊験と貴賤の崇敬,元禄16年神輿の寄進に始まるねり物などについて記述している。享保16年には町人たちによって三階造りの笠鉾屋台が寄進されている。こうして,江戸中期から後期にかけて,四国・中国地方に和霊信仰が伝播し,明治には九州・山陰地方にも拡大し,それぞれの地方に130社以上の独立社・境内社・屋敷神が存在する。「愛媛面影」に「殿社の結構も亦比類なし」といわれた社殿は,享保16年~寛政2年にかけて建築され,昭和20年7月の戦災で焼失したが,第2次大戦後次々と復興された。現在,7月23・24日の夏祭りには10数万人の参詣者でにぎわい,走込み等の勇壮な神事は和霊大祭として知られ,宇和島祭と結合されている。和霊神社の社叢(市指定天然記念物)は面積が6,203m(^2),照葉樹林の典型として知られている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7203694