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浦ノ内馬牧
【うらのうちうままき】


浦ノ内湾と土佐湾に挟まれた横浪半島に設けられていた土佐藩山内家の馬牧。現在の須崎市浦ノ内にあたる。東はナベウドから西は鳴無まで約550haの広大な範囲にまたがっていた。浦ノ内馬牧の設営は寛文11年正月16日に着手し,3月29日には工事がほぼ完了して,その人夫役は4,000人にも及んでいる。同12年5月9日に「浦ノ内へ牧馬放」と見えている(家老月番記録)。藩主山内豊昌は,御馬役国沢十郎左衛門を牧山御用として薩摩に派遣した。また,寛文11年には渡辺九右衛門が仙台に赴き,馬20頭を購入し帰国している(山内家記録)。放牧した馬は奥州馬を主にし,一部薩摩馬であったようである。貞享2年12月3日付の下横目が報告した御牧山御馬覚によると,馬数95うち19頭が駒(乗馬),76頭が駄馬であった。また,元禄13年5月28日付には,馬数94うち駒39・駄馬55と見えている(同前)。延宝2年,浦ノ内牧山番人には石本三助が任命され,馬牧廃止になるまで親子2代勤仕した。元禄地払帳では,口浦村(浦ノ内村)の本田のうちに「拾六石四斗七合 牧山口籠引地」とある。浦ノ内馬牧は30年間経営が続けられたが,維持費が重なり藩財政の節約を理由に元禄15年廃止となる。安永7年の「西浦廻見日記」は「牧馬元禄拾五年ニ止ル,凡四拾年余,牧有しよし,谷々に冬ハ小屋を打,冬がひをあたへ,他所より笹を取りて植なとして甚物入の事なりしよし,山けはしく,馬谷に落て損せしよし,云伝ふ」と状況を伝えている(東西廻浦日記)。さらに,「板垣氏自家雑記」にも「浦ノ内牧山やまり,牧馬御家中其外所々庄屋,年寄中へ被遣」とあり,馬は家中武士や村役人に払い下げられた。この浦ノ内馬牧を「延喜式」に見える「沼山村馬牧」に比定する説も伝えられている。馬牧跡を伝えるカンヌキ谷や,海岸につくられた馬止をいう波止の地名や堀切が残っている(須崎市史)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7204269