吸江寺
【ぎゅうこうじ】

高知市吸江にある寺。臨済宗妙心寺派。山号は五台山。本尊は聖観音。市街地の南東部,五台山県立都市公園の西端に所在する臨済宗の古刹で,江戸初期までは吸江庵と称した。南北朝期を代表する禅僧夢窓疎石を開山とする。夢窓は南北両朝の皇室をはじめ北条氏・足利氏らの帰依を受けるが,その前半生は多分に隠遁的宗風を示し,文保2年執権北条高時の母覚海尼の招きを避け,京より土佐国に下り五台山のふもと吸江に庵居した(夢窓国師年譜/続群9下)。室町幕府を開いた足利尊氏は夢窓に弟子の礼をもって接しており,これが当寺の発展へとつながっていく(県史古代中世)。当寺を訪れた禅僧も夢窓の高弟で五山文学史上著名な義堂周信や絶海中津のほか,大周周奝・西胤俊承・惟明瑞智らがおり,土佐国中世禅宗文化の中心となった(同前)。一方,幕府を頂点とする臨済宗五山派の政治経済的保護は,当寺の文化活動を側面から支えた。寺蔵文書によれば,創建当初は五台山上の竹林寺(現真言宗智山派)の支配下に置かれていた。康永2年稲吉・乙松両名の地頭職を寄進され,文和2年より数年前佐川道覚が五台山内の地を寄進しているが,この時が吸江庵の独立の時といわれている。義堂周信の「空華日用工夫略集」によれば応安2年旦那片山なる者が接待庵を建立寄進している。また応永2年には,細川頼元の申請を受けた前将軍足利義満が「介良庄成武郷内大島中潮田村・片山庄盖村入交分六名・成松名・吉末名・久吉名・重富名」などを寄進している。この頃京都相国寺の塔頭勝定院の末寺となっていた。応永13年には吸江庵法式がつくられている。室町期,土佐は守護細川氏の領国であったので,吸江庵もその保護を受けたが,室町期後半になると寺領への侵略などがあり,吸江庵も衰退のきざしがみえはじめる。細川氏のもとで吸江庵寺奉行を勤めた長宗我部氏は,その勢力の強大化に伴い,統制を強化しつつも寺を庇護した。天正16年の五台山島地検帳のうちの吸江領地検帳によると,「吸江庵ミツモリ」として地蔵堂(3間四方)・御影堂(5間四方)・粋適庵(2間四方)・客殿(5間四方)・庫司(5間四方)・風呂(3間)・祠堂蔵(4間)・松空庵(4間)・鎮守(2間四方)のほか6宇の建物が記され,寺領は1町1反余とある。長宗我部氏の没落によって一時退転したが,山内氏の入国後,承応元年,一豊の義子湘南が寺主となり,彼の努力で寺基を復興,現寺号へ改められた。江戸初期,青年時代の山崎闇斎が当寺で修行したことは有名である。明治初年廃寺となるが,同25年復興されて今日に至る。現在,創建期のものといわれる石段・石垣が残り,吸江庵跡として県史跡に指定されている。寺蔵の木造地蔵菩薩坐像は足利尊氏の守本尊勝軍地蔵といわれ,像高86cm,鎌倉期の作で,国重文。ほかに貞和5年在銘の茶臼(県文化財)や吸江菴扁額(伝足利義持筆)・西来堂扁額(伝夢窓筆)が残り,所蔵文書は市文化財。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7205282 |