四国遍路道
【しこくへんろみち】

四国霊場八十八か所の札所をつなぐ道路。四国地方での空海にゆかりの深い霊場を結び,行程は徳島県鳴門市にある第1番札所霊山寺を起点にして,香川県大川郡長尾町にある第88番札所大窪寺へ至る約1,400kmに及ぶ。その起源については,弘仁6年空海による開創とする説,衛門三郎を元祖とする説,空海の弟子真済が空海の遺跡を回ったことに始まるとする説などが伝わる。しかし,日本の巡礼はおおむね僧侶らの修行の手段として始められたといわれ,四国遍路も同様の起源をもつものと考えられる。「今昔物語集」巻31第14話に「今ハ昔,仏ノ道ヲ行ヒケル僧三人伴ヒテ,四国ノ辺地ト云フハ伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻ナリ」と見え(古典大系),12世紀末の成立という「梁塵秘抄」にも「我等が修行せし様は,忍辱袈裟をば肩に掛け,又笈を負ひ,衣は何時となく潮垂れて,四国の辺地をぞ常に踏む」とあり(同前),特定の霊場名は明らかではないが,平安末期には修行僧・修験者が巡り歩いた修行道である「四国の辺地」が存在したことがわかる。ただ,四国は空海誕生の地,讃岐国屏風浦や,空海が虚空蔵求聞持法を修した室戸岬など空海所縁の地を控えており,真言宗開祖空海の遺徳をしのんで巡る僧もあったのであろう。「拾遺往生伝」に,高野山僧蓮待(承徳2年入寂)は,修行経歴し,去留を定めず,遂に土佐国金剛頂寺に至り,高野山に戻ったが,再び土佐国を訪れ,金剛頂寺の近くで往生したと見える(続群8上)。平安末期にはすでに修験者らとのかかわりをもっていたが,その後より密接な関係を有するようになった。弘安年間頃のものと考えられる年未詳の仏名院所司目安案に「不住院坊者,修験之習,以両山斗藪滝(籠)山千日坐巌屈(窟)冬籠,四国辺路三十三所諸国巡礼遂其芸……」とあり(醍醐寺文書2/大日古),「四国辺路」が西国三十三か所観音霊場とともに修験者の重要な行場に位置づけられている。このような修行道が,今日みる四国遍路道の八十八か所の霊場を備えるのは室町期で,この頃から弘法大師信仰の広まりとともに,一般の人々の巡礼が徐々に増え,江戸期になって庶民に定着したと思われる。回り方には,番号順に回る順打ちと,逆に回る逆打ちがあり,四国各県ごとに巡路の意義付けがなされている。徳島県は「発心の道場」,「三教指帰」に「勤念土州室戸崎」と記され空海修行の地として知られる高知県は「修行の道場」,愛媛県は「菩提の道場」,香川県は「涅槃の道場」と呼ばれる。なお,四国遍路は弘法大師信仰ばかりでなく,熊野信仰とも濃厚な関係をもつといわれる。特に高知県は他の3県の数倍の熊野神社が県内に分布し,紀伊国熊野那智の補陀落信仰と同様に,補陀落渡海が,第24番札所の室戸岬の最御崎寺(室戸市),第38番札所の足摺(あしずり)岬の金剛福寺(土佐清水市)にみられ,最も熊野信仰の影響を受けていたことがわかる。土佐国では,江戸中期頃から札所を回る人々が増えだしたが,関所の通行に厳しい制限が加えられていた。元禄3年の大定目に「辺路は其身之国手形見届,札所順路に候条,甲浦口・宿毛口より入可申也」とあり,入国・出国には2か所しか認めていない。高知県内の札所は室戸市室戸岬町の最御崎寺(第24番)から宿毛(すくも)市平田町中山の延光寺(第39番)までの16か寺である。徳島県海部郡日和佐町の第23番薬王寺から国道55号を海岸沿いに南西へ向かい,甲浦(かんのうら)で高知県に入る。甲浦坂を越え野根,室戸市入木―佐喜浜―椎名を通り三津・高岡と旧国道55号を通り室戸岬に至る。室戸岬の先端に最御崎寺の登り口がある。現在は室戸岬を西に回れば,立派な自動車道路が寺院まで続く。野根より入木に至る海岸沿いの道は淀ケ磯といわれ,江戸期承応2年ここを通った京都智積院の澄禅は「四国遍路日記」に「彼ノ音ニ聞土州飛石,ハ子石ト云所ニ掛ル,此道ハ難所ニテ,三里カ間ニハ宿モ無シ。陸より南エ七・八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ」,「上ノ山より大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ。ケ様ノ所ハ岩角ニトリ付,足ヲ爪立テ過行,誠ニ人間ノ可通道ニテハ無シ」と述べている。室戸岬の南端,標高160~170mの海岸段丘面に最御崎寺(東寺)がある。かつては求聞持堂より上は女人禁制の地といわれた。最御崎寺より山を下り,岬の西海岸を1里少々北上すると,漁港近くに位置する第25番津照寺(津寺)に至る。津照寺から第26番金剛頂寺(西寺)までは1里(四国遍路日記)。行当岬の標高160~170mの海岸段丘面,崎山台地に位置する。金剛頂寺を下り,海岸沿いを北上,羽根―安芸郡奈半利(なはり)町―同郡田野町を経て同郡安田町に入る。奈半利と田野の町境を形成する奈半利川を「四国遍路日記」は「田野ト云所ニ大河在り。渡シ舟有」と記す。安田町に第27番神峯寺が標高630mの山頂にある。神峯寺から海岸沿いをさらに北上,安芸市の市街地,安芸郡芸西(げいせい)村,香美郡夜須町の手結(てい)山のトンネルを抜ける。かつては峠を越えていた。赤岡町から野市町に入り,国道55号を離れ北へ進み,大谷に至る。そこには第28番大日寺がある。大日寺からは道を北西に,父養寺を通り物部川の戸板島橋を渡り,土佐山田町で国道195号に入る。道を西進,国鉄土讃本線を越え,南国市下末松の辺路石に入る。そこの道しるべに「右は大日寺,左は国分寺」とある。辺路石を北にとり,国分川を渡れば第29番国分寺に至る。江戸期,国分川はたびたび氾濫し,渡ることは困難をきわめた(四国遍路日記)。国分寺より北方,国分集落を西へ進み,笠ノ川で国道32号に入り,大坂峠を越えれば高知市となり,土佐神社(一宮神社)に入る。そこには第30番善楽寺がある。善楽寺は一宮別当寺であった。第30番札所の奥院として安楽寺(高知市洞ケ島町)がある。明治の排仏毀釈で善楽寺の本尊を安置したことによる。善楽寺より国道32号を南西に向かい高知市街地に入り,東に進み浦戸湾に架かる青柳橋を渡り,標高110~120mに位置する第31番五台山竹林寺に至る。江戸期は善楽寺より西に向かい,久万川を渡り,高知城下東端より川舟で五台山に渡っていた(四国遍路日記)。竹林寺を下り,下田川を渡り,南の山を越えれば,第32番禅師峯寺がある。禅師峯寺より西へ進み,種崎から浦戸湾を浦戸大橋で渡り,長浜にある第33番雪蹊寺に入る。「四国遍路日記」には道の状態を「山ヲ下テ,浜伝ニ一里斗往テ浦戸ト云所ニ至ル。爰ニ大河在リ,材木・米等ノ舟出入スル所ナリ」とあり,さらに「此河ニ大守より渡シ舟ヲ置テ自由自在ニ旅人渡ル也」と記す。雪蹊寺より長浜川沿いに西へ進み,新川川を渡ると吾川(あがわ)郡春野町秋山に至る。そこには第34番種間寺がある。種間寺より西に向かい,国道56号に入り,仁淀川大橋を渡って土佐市市街地を北に向かうと,たちはだかる山の中腹の標高150~160mの地点に第35番清滝寺がある。江戸期には仁淀川を舟で渡り,その後徒歩で清滝寺に至った。清滝寺より東へ,仁淀川大橋詰付近まで戻り,それより南下,新居の立石の海岸で西に折れ,宇佐の福浜で横浪黒潮ラインに入り,浦ノ内湾に架かる宇佐大橋を経て第36番青竜寺に至る。標高40~50mに位置する。江戸期には清滝寺より仁淀川の渡し場まで戻り,新居村,浦伝いに福島へ,そこで舟に乗り竜ノ渡しで井尻へ,海岸沿いに竜に向かい青竜寺に至る道と,清滝寺より高岡の南東,井関へ向かい,波介川を渡り,塚地より山越えで宇佐,福島,渡舟への道があったようである。青竜寺から窪川町の第37番岩本寺へは横浪黒潮ラインを西へ,桜川を渡り国道56号に入り,須崎より山道となり,安和,久礼を通り台地の窪川に至る。江戸期は井尻より舟で横浪三里の浦ノ内湾を西に進み,奥津横波で降り,大浦―須崎―角谷―久礼―仁井田に至った。安和から久礼・仁井田に至る遍路道を澄禅は「カトヤ坂ト云大坂ヲ越行,漸登リテ峠より見渡セハ,谷ヲ隔テ向ニ焼坂トテ跡ノ坂ニ十倍シタル大坂在リ,退屈シナカラ谷底ヲ下リテ彼焼坂ヲ上ル,土佐無双ノ大坂也」と述べる(四国遍路日記)。江戸期は岩本寺に参詣せず,仁井田五社(現高岡神社)へ行ったようで,澄禅は「四国遍路日記」の承応2年8月29日の条に「新田(仁井田)ノ五社 南向横ニ双ヒテ四社立玉フ 一社ハ少高キ所ニ山ノ上ニ立」「札ヲ納,読経念仏シテ 又件ノ川ヲ渡テ跡エ帰テ窪川ト云所ニ一宿ス」と記す。現在も高岡神社社前の享和3年8月の道しるべには「是ヨリ足すり迄廿一里」とある。岩本寺より国道56号で片坂を越えて幡多郡に入り佐賀へ下る。そこから海沿いの道を進み,入野を経て中村に至り,四万十(しまんと)川(渡川)に架かる渡川大橋を渡る。ただちに東へ折れ国道321号で川堤を下り,間崎・津蔵淵を経,伊豆田の峠をトンネルで越え,市野瀬に入り,大岐・以布利を経て土佐清水市の市街地に至る。足摺スカイラインで岬にある第38番金剛福寺に入る。金剛福寺から宿毛市の第39番延光寺までの道順は今も2とおりあり,ともに約80km。中村市具同まで戻り,国道56号に入り,有岡・平田を経て延光寺に至る道と,土佐清水市の市街地から国道321号で海岸を回り,宿毛を通り延光寺(寺山)に至る道である。江戸期は通常,一ノ瀬より成山―狼内―上長谷―江ノ村を通り延光寺に至っていたようである。延光寺より第40番の伊予の観自在寺に向かうため国道56号で宿毛(すくも)に入り,愛媛県一本松町へ至る。江戸期は宿毛から松尾坂の峠に至ると,土佐の遍路道は終わる。江戸期の土佐の遍路道を,「四国遍路日記」は「山海野沢多シ,殊川多シテ行路ニ苦労在リ」「土佐八十六里」「土佐廿日難所故也」とも記しており,まさに「修行の道場」の様相を呈していた。現在,道路整備や交通の発達で往時をしのぶことは難しいが,遍路道筋には道標が残り,巡礼者接待や善根宿がみられる。また県の北西部に多く残る茶堂は村人が巡礼者に茶や食物を接待する施設で,農作物の品種交換などの文化交流の場でもあった。長宗我部地検帳にすでに見え,大師信仰や祖先供養などの民間信仰を背景とすると考えられている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7205948 |





