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多気坂本神社
【だけさかもとじんじゃ】


安芸郡奈半利(なはり)町の中里にある二社相殿の神社。ともに延喜式内社。旧郷社。祭神は多気神社が武内宿禰,坂本神社は葛城襲津彦命。奈半利川河口にある沖積地の北東山麓に位置する。創祀は未詳。「土佐国式社考」は,多気神社は阿支奈臣が,坂本神社は建日臣の後裔坂本臣とその同族の布師臣が,それぞれの祖である武内宿禰と葛城襲津彦を祀ったと推定する。布師臣は「和名抄」に見える安芸郡布師郷に居住していたとみられる(県史古代中世)。しかし,阿支奈氏・坂本氏と当地との関係は定かではなく,これらの氏族による創祀は推定の域を出ない。江戸期は「嶽」と記される多気も坂本も,ともに地名によると考えられる。特に坂本は,ほかにも坂本を称する土地や神社が多いところから,坂のふもとなどの立地を表現した地名からきたと思われる。「類聚国史」貞観8年5月22日条に「土佐国坂本神」が殖田上神・朝岑神・祈年神とともに従五位下に叙されたとある。「延喜式」神名帳安芸郡条に見える「多気神社」「坂本神社」に比定され,もとは別々に祀られていた。「土佐州郡志」は「多気坂本神社」とし,一社として祀った時期や,どの社を中心に合祀したのかも未詳と記す。土地の伝えでは,もとふもとの地にあった坂本神社がいつの頃からか多気神社に合祀したという。天正17年の奈和利荘地検帳に,「タケノ宮芝」のほか3代の宮床を記すが,坂本神社の記載は見えない。慶長9年4月銘の棟札には「再興嶽大明神坂本大明神願主定心」とあり(南路志),江戸初期には合祀されていたことがわかる。慶長9年再興の際に2社を合祀したのであろうか。江戸期は社地3代,祭礼は9月16日であった(同前)。江戸末期に和食(わじき)郷(現芸西(げいせい)村)の金岡山宇佐八幡宮に隣接する権現社の社殿横梁に慶長13年の墨書銘があり,「奉造立坂本権現」と記されていた。神主がこのことを藩庁に届け出て,藩庁はこの権現社を延喜式内社「坂本神社」と認めた。しかし明治5年に平社とされ,当社は明治初年に郷社に列格。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7206523