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土佐神社
【とさじんじゃ】


高知市一宮(いつく)にある神社。延喜式内大社。土佐国一の宮。旧国幣中社。祭神は味耜高彦根尊とも一言主神ともいう。古くは土佐坐神社・土佐高賀茂大社・高賀茂大明神・一宮大明神などと呼ばれ,「土佐」は都佐とも表記された。南国市へ通じる大坂越のふもとに所在する。創祀は未詳であるが,「日本書紀」天武天皇4年3月2日条に「土左大神」が神刀1口を天皇に献上したことが見え,朱鳥元年8月13日条には秦忌寸石勝が「土左大神」に奉幣したことが記される。この「土左大神」が本来の祭神で,古くは土佐国造が祀った神社といわれる。ただし境内東北方の一隅に礫石と呼ばれる畳2畳程の自然石があり,これが原始神道期の磐座とも考えられる(県史考古)。「土佐国風土記」逸文によると,土佐郡家の西方4里の地にある土佐高賀茂大社の祭神は,一言主尊あるいは味耜高彦根尊とされており,この頃から祭神が変化している。祭神を一言主尊とも味耜高彦根尊とも伝えるのはこの頃にさかのぼるものであるが,この祭神の変化は大和葛城山での雄略天皇と一言主神との出会いの説話を伝える「釈日本紀」と「古事記」「日本書紀」の間でも明確に表現されている。すなわち,「釈日本紀」雄略天皇の項によると,天皇は狩りの最中天皇と同様の面形をした長人(一言主神の化身)に会ったが,一言主神が不遜の言動をしたので土佐に流した。その後天平宝字8年に賀茂氏の奏言で大和国葛城に遷祀したが,一方,一言主神の和魂は土佐にとどまり,今に至るまで祭祀されているという。これが当社であるが,これに対し「古事記」「日本書紀」の説話には土佐国に関する部分の記述はない。「古事記」「日本書紀」の説話の方が原初的な形態で,「釈日本紀」の説話はのちに土佐国に関する部分が付加されたものであろう。つまり祭神の変化や「釈日本紀」の説話は当地に大和葛城地方を本貫とした賀茂氏勢力が進出して以後のことであり,当社の祭祀が賀茂氏に掌握されると同時に,当社独自の伝承も消失したものと考えられる。なお「続日本紀」天平宝字8年11月7日条によると,雄略天皇の頃老夫が天皇と葛城山で猟を争って土佐に流されたが,のちにそれが賀茂氏の祖神であることを知り,大和葛上郡に迎え祀られたという。ここには一言主神ではなく賀茂氏の祖神(高賀茂神,味耜高彦根尊)と記されており,高賀茂神にも一言主神と同様の伝承があったことが知られる。このことが,「風土記」以来当社祭神を味耜高彦根尊とも一言主神とも伝える原因となっていよう。貞観元年正月27日「都佐坐神」として従五位下から従五位上に昇叙(三代実録)。「延喜式」神名帳土佐郡条に「都佐坐神社〈大〉」と見え,土佐国唯一の延喜式内大社であった。さらに天慶3年2月1日には承平5年の海賊平定祈願の功によって,熊野速玉神・熊野坐神とともに正一位に叙された(長寛勘文/群書26)。「百練抄」元仁元年10月6日条によると,この日大風のため「土佐国一宮」の神殿以下一宇も残らず顛倒したという。戦国期に,土佐で大きな勢力を形成していた本山氏が山田氏・吉良氏などと組んで長宗我部氏の居城岡豊(おこう)城を攻撃,一宮村の在家を焼いた火が燃え移り,本殿を除くすべての社殿が焼失した。この焼失は永正6年とも永禄6年ともいわれ,明確ではない。その後長宗我部元親は焼失した社殿の復興に取り掛かり,京都から大工・檜皮師などを呼び寄せて永禄10年11月15日斧始を行った(土佐物語)。同11年の一宮再興人夫割帳によると,元親は番匠奉行・諸役奉行を任じ,弟親貞・親泰とともに諸役を統率した。また家臣から地下の名主に至るまでに命じ,諸郷より数多くの人夫を集めている(土佐神社文書/古文叢)。社殿は元亀元年に竣工し,境内に40の末社,仁王堂・護摩堂・鐘楼堂などが建てられたという(土佐物語)。この時,本殿が現在の形式に改められたといわれる。現社殿(国重文)は入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿と,その前方の十字形をなす幣殿,拝殿,左右の翼,拝の出からなる。十字形の屋根は交差した部分が重層切妻で,他は単層切妻である。本殿を頭とし,幣殿を短く,尾に相当する拝の出を長くした十字形で,とんぼが飛び込む形にみたてたいわゆる入蜻蛉形式で,凱旋を報告する社という意味があるという。なお若宮八幡宮(現高知市長浜)の本殿は,出陣に際しての戦勝祈願社として出蜻蛉形式といわれる。長宗我部地検帳によると,神田や神領は一宮村を中心に,周囲の薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布している。これらの神田の中には正月1日~12月晦日までの数多くの神事田が記され,多くの年中行事があったことがわかる。「修正田」「灯明テン」などのほか,射初祭のことと思われる「イクサマツリテン」「戦祭神事」も見える。また祠職として,執行・執当・主頭・礼夫・神主・太夫・惣佾・一和尚など多くの神職や祠官が記され,内部機構は細分化していたらしい。近世に入国した山内氏の崇敬も篤く,土佐2代藩主山内忠義は寛永8年に楼門を,慶安2年には鼓楼を建立している。楼門は和様で,上層の高さが下層に比して特に低いという古い様式。細工もよく整っている。鼓楼は装飾的・絵画的な様式をもつ桁行3間,梁間2間の重層建築で,下層は板張りで力強い曲線をしており安定感がある。上層は下層に比べて狭く作られ,その上に大きな屋根を載せる。いずれも国重文。近世の祠官は執行・神主・一和尚・忌部3人・宮仕4人・社人の計25人で(皆山集),善楽寺(現高知市一宮)・神宮寺が別当を勤めた(南路志)。古くは年間75度の祭礼があったが,近世は27度に減少したという(皆山集)。その中で山内一豊は,かつて長宗我部元親が国分寺(現南国市国分)で始めた千部経修行を当社で再興。元親は合戦での戦死者追善のためこれを始めたが,一豊は宮中・国家安全祈祷のために開始したという。慶長6年の一豊入国以来毎年10月6~12日に行われ,1番常通寺から16番長福寺までの着座次第も決まっていた(南路志)。祭礼の中でよく知られているものに,旧暦7月2~3日(現在は8月24~25日)の志那禰祭がある。シナネの語源は未詳であるが,新嘗の義とも,風神級長津彦からきた名称ともいわれる。現在は8月24日の斎火祭から祭礼が始まる。参詣者は斎火所の篝松明から肥松に火を移して持ち帰るが,この松明は参詣の証となるとともに落雷から免れるという信仰があり,親戚知己にも分けられる。25日は祈念祭および新嘗祭が行われ,午後3時頃から神幸が始まる。神の船遊びと呼ばれ,古代には浦ノ内湾の鳴無神社(現須崎市浦ノ内東分)へ海路渡御した。建久5年からは鳴無神社前の浜で神楽が奏されるようになったが(編年紀事略),神幸はしばしば海難に遭ったためとり止められ,江戸期には五台山北岸に小一宮という御旅所が設けられてここに神幸した。今日ではこれも止まり,当社南方の一本松御旅所まで徒歩で神幸している。また古くは志那禰祭に放生会が付随していたらしく,大高坂之郷地検帳に一宮領として「志那禰放生会田」が散見する。明治4年国幣中社に列格,同時に土佐神社と改称した。社宝として多くの銅鏡と能面を所蔵する(いずれも市文化財)。




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「角川日本地名大辞典」
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