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比江
【ひえ】


旧国名:土佐

香長平野の北端,国分川右岸に位置する。地名は,代々の国司が当地に赴任し,京の都をしのんで北部の小丘を比叡山と名付けたことにより,比叡が転訛して比江となったという。比江山断層の中から3,000年前のチャート製石錐が出土し,ハナノキ遺跡からは古墳前期の壺類が出土。さらに県史跡土佐国衙跡や一帯が国史跡地に指定された比江廃寺などあって史跡・伝説の多い地である。「土佐日記」に「あるひと,あがた(県)のよとせいつとせはてゝ,れい(例)のことどもみなしをへて,げゆ(解由)なととりて,すむたち(館)よりいでて,ふねにのるべきところへわたる」と見え(古典大系),その「すむたち」は比江にあった。北に比江山,左右山の小高い丘陵地を控え,東南を西に流れる国分川は,堀の役割を果たすとともに,浦戸湾に流れ込んでいる。この比江の地に国府が置かれ,紀貫之などが国司として在任したことはよく知られている。この国府跡北方の字内裏に貫之の邸跡といわれる地がある。尾池春水は貫之の邸跡の荒廃を惜しみ,藩主山内豊雍の篆額,日野大納言資枝の和歌,清原宣条の撰文を請うて石に刻し,寛政元年「紀子旧跡碑」を建てた。その後,大正9年には,「千載不朽」の碑(撰文は文化6年松平定信作),昭和19年には高浜虚子の「土佐日記懐にあり散る桜」が貫之の邸跡に建った。明治22年2月6日には,富岡鉄斎が比江を訪れ,尾池春水の建てた碑などを見て帰った。昭和6年4月2日には,高浜虚子が紀氏旧跡を訪れた。この時詠んだ句が「土佐日記懐にあり散る桜」であった。古くは,当地は府中とも呼ばれ,室町期の嘉吉2年4月14日の年紀のある引地村中屋敷薬師堂鰐口銘には「苻中日吉薬師堂常住院主継玄」とあり,願主は隆尊であった(古文叢)。織豊期の天正16年の廿枝郷衙府中国分地検帳には「衙府中」(現在の大字比江)と「国分」(現在の大字国分)の地域が記されており,両方をあわせた総筆数は590筆,検地面積は73町1反余となる。同地検帳にはホノギに前記の「苻中」や日吉神社のある「比ヱ山」,比江市町の存在を示す南町・古市・古市北丁,比江山城跡のヒエ山ノ大城本台・ヒエ山ノ古城二ノ塀四方ホリノ内などが見える。
比江村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
比江(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7207668