室戸岬
【むろとみさき】

県の東部,室戸市に位置し,四国南東部に突出する岬。かつては室戸崎の呼称が一般的であった。室戸阿南海岸国定公園に属する。海岸段丘の発達が著しく,地層は四万十帯に属する室戸層群の砂岩・泥岩の互層からなり,やや泥岩がちの地層である。岬端には泥岩,東岸には斑糲岩が海食されて豪壮な海岸の岩石景勝地をつくり出している。段丘崖は100~150mの比高をもち,西斜面にはビワなどの果樹が栽培され,段丘面の平坦地は畑地や牧草地などに利用されている。岬の西側海岸から150mの比高を一気に登るスカイラインが開通しており,段丘上を内陸部に向かって走り,室戸市中心部と結ばれて太平洋を見下ろす観光コースになり,土佐湾や紀伊水道の海岸線の美しさが満喫できる。室戸岬の東側は段丘崖がそのまま沈水し,直線状の海岸線で,海岸低地にも恵まれない。岬付近の低地や段丘斜面には,ウバメガシ・アオギリ・アコウなどの亜熱帯植物群落が繁茂し,強風地帯を示す独特の景観をつくっており,室戸阿南海岸国定公園の拠点となっている。岬山頂には四国霊場八十八か所第24番札所最御崎寺(東寺),室戸岬灯台,測候所があり,段丘下の国道沿いには,空海(佐伯真魚)修行の地と伝える海食洞の神明窟や,中岡慎太郎の銅像がある。空海は当地での修行の有様を,「三教指帰」の中で,「土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず,明星来影す。遂に及ち朝市の栄華念念に之を厭ひ,巌藪の煙霞日夕に之を飢ふ」と述べている(古典大系)。「今昔物語集」巻11,弘法大師,渡唐伝真言教帰来語には,「或ハ土佐ノ国,室生門崎ニシテ求聞持ノ行ヲ観念スルニ,明星口ニ入ル」とある(同前)。「梁塵秘抄」巻2には,「四方の霊験所は,伊豆の走井,信濃の戸隠,駿河の富士の山,伯耆の大山,丹後の成相とか,土佐の室生戸,讃岐の志度の道場とこそ聞け」とある(同前)。「新勅撰集」によれば,「弘法大師土佐国室戸といふ所にて 法性の室戸といへど我すめば有為の浪風よせぬ日ぞなき」とある。紀貫之の「土佐日記」に「いつしかみさき(御崎)といふところわたらんとのみなんおもふ。かぜなみ,とににやむべくもあらず」とある(同前)。この「御崎」も室戸の御崎であり,時には「おはな」ともいった。大正2年に島崎藤村が「眼鏡」のなかで,「皆さんは地図を開けて御覧なさると,四国の端のところに海の方へ突出した岬がありませう。あそこを『お鼻』と呼んで居ます。『御端』といふ字を書くのかも知れないと旦那は言ひました。その四国の鼻の先を廻る頃には大分船も揺れました」と書いているのも,室戸の崎のことである。藤村が神戸から乗船し,室戸の沖を巡ったのは明治26年2月22日から23日へかけての夜のことだった。その時のことを藤村は明治26年の「かたつむり」で「神戸より舟にのりて波のまにまに南に向ふこと一日にして高知にいたる」と記している。神明窟の東方には,高浜虚子の「竜巻に添うて虹立つ室戸岬」(昭和26年建立),神明窟の入口には,川田十雨の「潮けむりあがりし磯の遍路道」(昭和32年建立),渡辺水巴の「乱礁の巣に鳥入りし月の秋」(昭和38年再建)の句碑がたつ。ホテルニューむろと前方の巌頭には,「土佐日記御崎の泊」の碑がたち,碑陰には,昭和41年に建立された「都にてやまのはに見し月なれどなみより出でてなみにこそ入れ」(土佐日記)の和歌が刻まれている。室戸市津呂の若一宮境内には,野中兼山の「室戸湊記」の碑(明治42年再建),室戸市内の山田邸には,今上天皇の「室戸なるひとよのやどのたましだをうつくしと見つ岩間岩間に」の歌碑(昭和36年建立)がたっている。江戸期には,最御崎寺(東寺)から金剛頂寺(西寺)に至る広い地域を室戸と呼んだりするようになったので,室戸は室戸の御崎であるとともに,室津を含む東寺から西寺にわたる広地域の総称でもあった。室戸岬は日本有数の台風の進路にあたり,大正9年には中央気象台付属室戸測候所が創設された。昭和9年の室戸台風は著名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7208405 |





