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赤司城
【あかしじょう】


中世の平城。三井郡北野町赤司に所在。築城年代は明らかではないが,築城者は赤司永直と伝える(筑後将士軍談)。史料的には暦応3年の藤原通幸軍忠状(肥前武雄社文書)に赤司城の名が見え,南朝方がこの城に拠って北朝方と戦ったことが初見である。このことから,当城は鎌倉期後半には築城されていたと思われる。赤司氏は筑後国山本郡を拠点とする草野氏の一族で,草野守永の次男永雄が赤司氏を称したといい(筑後将士軍談),赤司氏の動向としては,康暦元年,赤司備前入道宗祐が北朝方に属して活動していることが知られる(草野文書)。戦国期の赤司城と赤司氏の関係は詳らかでないが,大永2年に大友家臣吉岡鑑貞・山下親俊が筑後に出兵した際,赤司城に滞在,同5年には城後親興・野上鑑清が城代を勤めたとある(筑後将士軍談)。永禄3年には赤司資清が筑前箱崎で戦死したので,この城は秋月氏の支城となっている(同前)。秋月氏は天正15年,豊臣秀吉の九州出兵の際降伏し,小早川隆景にこの地が与えられたため,当城は小早川氏の管理下にあったと思われる。慶長6年,田中吉政が筑後国に入国すると家臣田中左馬允をこの城に置いた。その際,城料として1万石が付されている(田中則信文書)。元和元年の一国一城令で廃城となり,同7年の有馬豊氏の入国後,久留米城修築のため城の石垣は持ち去られた(筑後将士軍談)。「久留米古城覚書」によれば,城の構造・規模は,本丸が20間×17間,二の丸が45間×23間,太鼓櫓などがあったと伝えるが,現在は民家が立ち並び,水濠が残る程度である。また,赤司地区には,城小路・横小路・東小路など城下にちなむ地名も残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7208835