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麻生荘
【あそうのしょう】


旧国名:筑前

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。筑前国御牧(みまき)郡(遠賀(おんが)郡)のうち。鎌倉期の建長元年6月26日の北条時頼下文によれば,麻生資時は父時家の譲状によって山鹿荘内麻生荘・野面(のぶ)荘・上津役(こうじやく)郷3か所の地頭代職を譲られ,北条時頼によって安堵されている(麻生文書/鎌遺7088)。文永元年3月にも再び資時に対して上記3か所の地頭代職が安堵されている(同前/鎌遺9067)。ところが資時がその知行を未処分のまま死去したため,文永9年4月27日にいたり,その子資氏に対して某袖判下文をもって,上記3か所の地頭代職を領知せしめるところとなった(同前/鎌遺11116)。この時期の麻生氏の動向を伝えるのは以上の史料であるが,この3か所は北条氏の得宗領ないし一門の所領とみられ,北条氏はその被官を地頭代職に補任して支配をすすめたのであり,麻生氏はその被官としてこの地域に入り勢力を拡大していった。この3か所はこれ以降麻生氏の中心的な本領としてその支配を受けることとなる。麻生氏の名も麻生荘に由来する。なお,文永7年3月の石清水検校善法寺宮清の宇佐弥勒寺領注進抜書に「八幡宮寺修理別当献承知行之弥勒寺領西宝塔院家庄九ケ所」の1つに麻生新荘があげられているが(菊大路家文書/鎌遺10613),麻生氏支配の麻生荘とは別のものであると考えられる。室町期に入って,永享5年に家督を継いだ麻生家春に対して,翌6年6月に「麻生庄・野面庄・山鹿庄・感田庄・勢田村・二村村・高津村・小倉村・岩瀬村并麻生中務大輔入道照泉跡等」の知行が足利義教御教書によって安堵された。ここに記された諸処はこれ以後,麻生氏の惣領に伝えられていく。家春はその後,子の家慶とともに筑前国西郷における少弐氏と大内氏の合戦で大内方にあって戦死をとげ,その後嗣をめぐって一族内の内紛が表面化し,大内氏を通じて将軍義教の命が伝えられ,弘家が成敗するところとなった。麻生氏は室町幕府奉公衆であり,のちには大内氏にも属していた。永享11年8月29日に将軍によって麻生荘以下の知行が弘家に対し安堵され,嘉吉3年6月9日には幕府によって再び知行安堵がなされた。文安5年8月の麻生弘家の知行目録によれば麻生荘は内々帳面分として55町,公役答分としては50町と書き出されている。さらに同目録中の総諸浦内塩浜共外所々目録からは,荘内に戸幡浦と金屋が含まれていたこと,および山鹿荘内に成立した本荘は,元来山鹿荘の散在として扱われ35町であったことが知られる。これより先の至徳元年の麻生義助の知行目録には麻生荘の名は見えていない。弘家はこの後,子の弘国に家督を譲り,康正元年11月19日の室町将軍袖判御教書によれば将軍義政より麻生荘以下の所領が弘国に対し安堵された。しかし,弘国への惣領職の譲りは,弘家の相続時からの一族内の矛盾対立を拡大し,家春の子家延の敵対行動を招いたが,大内政弘の介入もあってようやく落着をみ,文明11年10月26日の足利義政袖判御教書では,麻生荘以下の所領は弘家に返付安堵された。こうして弘家・弘国の惣領権はようやく一応の安定をみることとなった(以上,麻生文書/九州史料叢書39)。これ以降の麻生荘の動向については詳らかではない。麻生荘の荘域は豊前国企救(きく)郡と境を接し,金屋・戸幡浦をその内に含むところから,現在の北九州市戸畑区の戸畑・浅生一帯と考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7208922