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今寺村
【いまでらむら】


旧国名:筑後

(近世)江戸期~明治9年の村名。筑後国下妻郡のうち。矢部川支流の沖端川分岐点に北接する平野部に位置する。地名の由来は,全体が寺地であったことによる。安元年間平重盛が36か寺を建立したといわれ,貞和年間足利尊氏による再興が伝えられるが,その後衰微に向い,寺領取上げにあった。慶長年間頃6坊が残っていたという(寛延記)。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。中折地組に属す。村高は,「元禄国絵図」228石,「在方諸覚書」の古高220石,「天保郷帳」270石余,「旧高旧領」326石余。藩内21か所にある穀留番所の所在地(筑後志)。田中氏が築城の際,当地の堂社をことごとく崩し,寺院はすべて廃絶。書写の大般若経一部以外は寺物・宝器が散逸(寛延記)。その後延宝6年真言宗光明寺堂舎(本尊千手観音)を中折地組大庄屋が建立,現在の本堂は天保7年再建のもの。「寛延記」には田地の名に「東ノ大門,西ノ大門,北ノ大門跡」など唱えていることを伝え,寺地13か所が知られると述べている。「筑後地鑑」では「坊舎悉ク野民ノ居宅ト成ル」とある。光明寺内に五社大権現があり,本社は熊野権現,併せて春日大明神・高良大明神・阿蘇権現・彦山権現を祀る。同寺中に若宮八幡宮もある。光明寺千手観音は筑後三十三か所23番札所に当たる。文化4年の本田8町2反余・開田1町6反余・畑田1町4反余・畑10町1反余・居屋敷2反余,春免高252石(農政農民史料集)。明治5年光明寺に優厭小学を設けたが1年で解散。同9年津島村の一部となる。現在の筑後市津島のうち。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209320