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有智山城
【うちやまじょう】


鎌倉期~室町期の山城。内山城・大宰少弐城ともいう。太宰府市内山に所在。築城年代は定かでないが,少弐氏によって築造され,「筑陽記」に「有二重堀二重土手」とあり,城跡が位置する宝満山麓,九重原(ここのえばる)の南西斜面の杉林中に,現在も二重の土塁と堀跡が残る。源頼朝の御家人武藤資頼は,建久年間九州に下向し,筑前・豊前・肥前の守護に補任された。嘉禄2年には大宰少弐に任ぜられ,以後,武藤氏がこの職を世襲し,少弐氏と呼称される。文禄・弘安の役には,九州御家人を統率して少弐資能と子の経資・景資兄弟らが活躍するが,鎌倉で生じた霜月騒動の波及からか,弘安8年に経資が景資を討ち取る岩門合戦が起こった。鎌倉幕府滅亡時に,貞経は大友氏らとともに鎮西探題北条英時を滅ぼし,その後,少弐貞経・頼尚父子は建武政府に離反した足利尊氏に通じた。建武3年2月,九州に下って再起を期す尊氏を迎えるため,頼尚が留守をしたすきに,後醍醐天皇方の菊池武敏・阿蘇惟直が有智山城を攻囲し,貞経は一族と自刃し果てた。3月,頼尚は尊氏と軍勢を合し,筑前多々良浜で菊池・阿蘇軍を破り,有智山城を奪還している。南北朝期の混乱は少弐一族にも及び,頼尚の子冬資・頼澄は幕府方と宮方に分かれて対峙した。また,冬資は九州探題今川了俊と溝を深め,永和元年,肥後水島で誘殺されている。頼澄の孫満貞の代に朝鮮との交易を行い,対立する九州探題渋川義俊を押さえるほど勢威を振るった。だが,大内氏の勢力が九州に進出すると衰退に向かい,満貞の孫政資(頼忠・政尚)は文明10年,大内政弘に敗れて筑前を捨てて肥前に走り,明応6年には大内義興と戦って敗死した。以後,少弐氏は東肥前の局地勢力に転落し,永禄2年,政資の孫冬尚が竜造寺隆信の軍勢に敗れて討死し,少弐氏は没落する。有智山城の歴史は詳らかでないが,少弐政資が肥前に逃れたことにより廃城となったと考えられる。なお,長沼賢海は「耶馬台と大宰府」の中で「浦城は幕府が少弐氏の為に築いた府の公城,公館であり,内山城は少弐の私館」であると述べている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209466