榎寺
【えのきでら】

太宰府市太宰府榎寺にある祠。かつては太宰府安楽寺の末寺で,釈迦・多宝の2仏を安置していた。榎木寺とも書き,浄妙寺と称した。菅原道真が大宰権帥に左遷された時に居住した都府の南館(菅家後集)がこの地といわれ,「北野天神縁起絵巻」(国宝本)に「今の大宰府の榎寺のきさらぎの下の五日のは(わ)かれ」と見え,延喜3年2月25日に道真が大宰府の榎寺で薨じたことを伝えている。「古今著聞集」によれば大宰大弐藤原惟憲が彼の跡を哀れみ,一伽藍を建立し,浄妙寺と呼んだとあるので,11世紀前半に菅公謫居地跡に浄妙寺が建てられたことがわかる。「安楽寺草創日記」には浄妙院は榎寺と号し,治安3年あるいは万寿2年の建立とある。南北朝期,観応3年2月日の安楽寺領注進目録に「榎木寺畠地壱町」とあり,観応3年以前に太宰府天満宮領として成立していたことが知られる。榎寺の支配について述べる史料が応安2年8月28日に小鳥居留守法眼御房と執行御房に宛てられた安楽寺領家菅原為綱御教書と執行御房宛の年未詳4月晦日の安楽寺領家菅原為綱御教書である。同文書によれば,京都の領家菅原為綱は大鳥居信高法印が菅原氏挙状使料所である榎寺を濫妨することを停止し,下地を大浦寺法眼代官に交付するように小鳥居留守法眼と執行に命じている。応安2年の領家御教書には「安楽寺領筑前国榎木寺事」と見え,また4月晦日の御教書には「安楽寺榎寺」のことは菅原氏の「挙状使料所」として「御管領」のところであり,「使料所事」は菅原家代々の長者の子孫が相伝していたと記されている。しかし,菅家長者の当寺に対する支配はうまくいかず,在地の大鳥居氏の違乱は続き,翌正平25年8月28日に小鳥居留守法眼と大浦寺法橋のそれぞれに宛てられた安楽寺領家菅原為綱御教書によれば領家菅原氏は大鳥居信高法印の榎寺に対する違乱を停めさせ,大浦寺法橋に当寺の管領を全うし,寺役と年貢の沙汰をするように再度命じている。戦国期,15世紀後期に大鳥居法印信快が記す御灯明方目録案文から太宰府天満宮の御灯明料所の1つが榎寺にあったことがわかる。また,天文年間に比定される12月6日の小鳥居法眼信元注進状には前記文書と同様に「一々榎寺在之」と見え,御灯明料所としての榎寺の存在が確認できる(太宰府天満宮文書/天満宮史料11・12,旧天満宮史料3・4)。江戸期には太宰府天満宮の8月23日祭礼の御旅所であるが,3間四面の小堂となっていた(続風土記)。現在も9月23~24日の太宰府天満宮神幸行事(県無形民俗文化財)には御旅所となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7209583 |