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大浜町①
【おおはままち】


(近代)明治8年~昭和41年の町名。1~4丁目がある。もとは江戸期の博多の竪町浜・浜口浜・市小路浜・西町浜と堅粕村字石堂川下。明治11年福岡区,同22年からは福岡市に所属。町名は北に海岸線があることによる。同13年には1丁目が96戸(うち工業7・商業56・雑業23)・422人,醤油・酢の醸造,博多織従事者があり,2丁目は121戸(うち工業16・商業35・漁業5・雑業80)・494人,博多織に従事する者あり,3丁目は81戸(うち工業15・商業46・漁業6・雑業11)・394人,4丁目が132戸(うち工業37・商業58・雑業4)・691人(福岡区地誌)。同22年堅粕村字石堂川下を編入。同年の戸数・人口は,1丁目108・532,2丁目148・759,3丁目107・593,4丁目151・800(福岡市誌)。明治10年代末から同20年代初めにかけて酒造所・精米所・鉄工所などが開業した。同23年博多桟橋会社が3丁目に桟橋を完成,この荷客の対馬小路往来の便をはかって下対馬小路に至る新道を開設,30年代に柳町埋立地まで貫通する裏町となり大浜新町(丁)と称した。しかし本格的な港湾機能を持つには至らず,明治35年築港埋立によって海岸線は消失した。築港開発に伴い,漁業・海運・木材関係の会社・商社が増えた。同36年一部を千年町・幾世町に編入。博多の夏祭りの最後を飾る流灌頂がある。出産でなくなった産婦の塔婆を道端に立て,塔婆の文字が消えるまで通行人に水をかけてもらって供養するもの(水施餓鬼ともいう)。宝暦年間より始められたといわれるが,これが一般の海難者や飢饉の犠牲者を法要するようになったという。同43年大浜尋常小学校が設置された。3丁目には明治24年3階建ての潮湯浴場晴心館ができ,潮湯の流行をつくった。昌盛をきわめたが,大正期には歓楽街が西に移動したことにより衰退した。4丁目は対馬小路(つましようじ)に商海ができてから,大浜一帯はその関係会社や商店・小料理店などが集まりにぎわった。昭和11年に築港~呉服町間の道路が道幅27mに拡張されて大通りとして完成,3丁目を貫通した。同20年の空襲では1~2丁目の大部分は被害をまぬがれたが,大正期~昭和前期に各商店や各工場があった3~4丁目は全町が被災した。戦後復興区画整理によって,3丁目は大部分が大博通りとなる。那の津公園が新設された4丁目も戦前と様子が変わった。昭和41年大博町・石城町・下呉服町・奈良屋町・神屋町となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209771