100辞書・辞典一括検索

JLogos

16

遠賀郡
【おんがぐん】


旧国名:筑前

古代~現在の郡名。筑前国および福岡県の郡の1つ。岡郡・岡の湊・崗水門と呼んでいたものが,和銅6年以後,乎加・塢舸・遠河・遠賀の2文字が使われ,呼び方も「おか」から「おんが」に変化した。筑前国東北部に位置し,東は豊前国,南は鞍手郡,西は宗像(むなかた)郡に接する。北は響灘に面し,東西は山地が連なる。中央部を遠賀川,およびその小河川も北流して響灘に注ぎ,流域に豊かな農地が広がる。東北方から細長く洞海湾が入り込み,その奥から小水路の江川が遠賀川河口に通い,この響灘に囲まれた一帯は大昔島であったということから島郷と呼ばれる。地名の初見は,「古事記」に神武天皇が筑紫の岡田宮に1年留まり,「日本書紀」に神武天皇は筑紫の崗水門に至り,また仲哀天皇8年に岡県主の祖熊鰐が天皇を迎えるとある。「筑前国風土記」逸文は,塢舸県の東に大舶を容れるに良い塢舸水門があり,鳥旗の澳を岫門といい小舶を容れるによいという。かつて遠賀川の河口と洞海湾とは繋がっており,この地は水上交通の要衝であったといえよう。郡名の由来については,「続風土記」が遠賀は岡の真名仮字で,原村(現岡垣町)から芦屋にかけて高い岡が続いていることからだろうといい,「太宰管内志」は「広き岡のあるに依れり」とする。「地理全誌」は「続風土記」の説に反論し,「是(原村)ヨリ西南ノ方,山近キ処ヨリ起レル名」とする。室町初期から,馬牧が多い理由で御牧(みまき)郡となるが,寛文4年江戸幕府の命で遠賀郡に復した。またこの間,水巻郡とも書いた。
(古代)「和名抄」の郷は埴生【はふ】・恒前・山鹿・宗像・内浦・木夜の6郷。
(中世)中世における当郡の荘園には摂関家領垣崎荘・九条家領山鹿荘・西園寺家領楠橋荘のほか,遠賀(本)荘・遠賀新荘・羽生荘・勝木荘などがあった。
(近世)寛文4年幕命により御牧郡を改称して成立。
(近代)明治11年~現在の郡名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209953