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垣崎荘
【かきざきのしょう】


旧国名:筑前

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。筑前国御牧(みまき)郡(遠賀(おんが)郡)のうち。「和名抄」に「恒崎郷」とあるが,恒を垣の誤りとみれば,この荘名は古代の郷名を引きついだものということになる。文永10年5月の大隅正八幡宮大神実官使重申状案に見えるのが史料上の初見であるが,それによれば,建久年間の宇佐宮造替時に,造宇佐宮使に対し垣崎荘の地頭であった長洲二郎と舎弟鯰田五郎は妨げを働き,ためにその所領は召し上げられ,御使の越中七郎左衛門入道に給された。文永10年の時点で,なおその子孫の相伝するところという(八幡宮関係文書/鎌遺11257)。弘安3年4月の幸成等重申状によれば,幸成らは「自去々年被預□寺務,垣崎庄寺用米等」不日に下行されんことについて重ねて言上している(兼仲卿記紙背文書/鎌遺13940)。この文書の表に「勘仲記」を記した兼仲は摂関家の執事でもあり,裏文書にも摂関家領に関するものが多いので垣崎荘もこの頃までには摂関家領であったことがうかがえよう。この点については暦応5年の摂籙渡荘目録に,東北院領として垣崎荘の田300町が保有され,年貢600石が課せられていたことからも裏付けられる(九条家文書/南北朝遺1746)。吉木に隣接する高倉に所在する高倉神社の所領が嘉元年間垣崎荘内に存在し(高倉社作田注文/荘園志料),室町期の正長頃には現作田214町5反余りであったという(遠賀郡誌)。現在の岡垣町吉木を中心とする一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209978