100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

掛町
【かけまち】


旧国名:筑前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は博多の1町。那珂川下流右岸に位置する。洲崎流のうち。東は綱場町,西は麹屋町に続き,博多を横断する六町筋の1つ。洲崎流のうち。往古は,当地周辺まで入り海で,人家はすベて掛作りして住んでいたので町名となったという(続風土記付録)。古くは金沢番とも呼ばれたがその由来ははっきりしない。太閤町割り当時からあった古い町と思われる。元禄年間の家数28(続風土記),宝暦年間の家数27,間数74間余(石城志)。黒田長政の時代には,彦三郎という唐織の名工がいた(続風土記)。また,「石城志」によれば,長崎でべっ甲細工を習得した帯屋治郎右衛門が櫛などを作っていた。のち津中でも盛んになったが,とくに当町に良工が多かったという。元禄16年には掛町筋に大火があり,家作困難のため銀拝借の許可が下りた。享保5年両市中に唐物問屋・薬種問屋が命ぜられ薬種問屋相部藤三郎も博多4か所の1人となった。延享元年には,徳右衛門が辛子問屋を命ぜられた(博多津要録)。慶応2年になると,博多織の亀屋(山崎藤平),薬種・唐物の相部藤兵衛,紅絞りの肥後屋,薬種の長崎屋など大店が多く並んだ。薬種と唐物・代呂物の店が多いのが特徴(博多店運上帳)。明治期になり年行司の制度は廃止されたが,亀屋の山崎藤四郎は最後の年行司で,「石城遺聞」の著者でもあった。長崎屋は,九州鉄道ができてからは,長崎煙草の専売,長崎仕入の唐物,小間物類の販売で栄えた。明治17年博多集産会社が開場,同25年に博多集産場と改称,のち,寿通りに通じる井上通りができ,べっ甲,袋物,はき物,人形などの店が並び栄えた。明治11年福岡区,同22年福岡市に所属。明治12年の戸数26・人数128,物産は酒・博多絞,民業は工2戸・商24戸(福岡区地誌)。同22年の戸数30・人数165(福岡市誌)。明治期から大正期にかけて,麹屋町・綱場町・掛町あたりを掛筋といって博多一の繁華街であった。昭和20年の空襲で全滅。同41年下川端町となる。明治期のように小売店も少なく,当時の華やかさはない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7209996