香椎宮
【かしいぐう】

福岡市東区香椎にある神社。旧官幣大社。祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神を配祀する。香椎は,「古事記」「日本書紀」によれば,仲哀天皇の熊襲征伐の際の行宮の地で,天皇は西征の陣中,この行宮で亡くなったとされるが,やがてその故地に神功皇后伝説とも結びついて天皇・皇后の霊を祀る廟が営まれたらしい。社伝などによれば,創建年時を神亀元年とするが,「万葉集」巻6には,この年の11月,大宰帥大伴旅人らが「香椎廟」に参拝し,歌を詠じたことが見えているので,さらに古くさかのぼり得るであろう。「続日本紀」には,天平9年4月朝廷の使が新羅の無礼を「香椎宮」に告げたことが見える。当初の当社に対する朝廷の信仰は新羅との外交に関わるものが多いが,やがて天皇即位や国内兵乱などの重事にも勅使差遣が慣例となり,建武3年に至るまで続いた。当社は「延喜式」神名帳にその名が見えず,式部省下に「橿日廟司」,民部省下には「香椎宮守戸一烟」とあるように,平安前期には他の神社と異なる特殊な取扱いを受けていたが,やがて大宮司職が任命されるようになり,一般神社と同様の性格をもつようになった。保延6年閏5月5日には,大山寺・香椎宮・筥崎宮の僧徒・神人が,大宰府その他の屋舎数十戸を焼き払うという事件が起き(百錬抄保延6年6月20日条),それを機会に大宰府府領に編入された。やがて仁安元年に大宰大弐として下向した平頼盛によって,香椎宮の本家職は蓮華王院に寄進され,領家職は頼盛の家領に組み入れられた。頼盛の死後,長らく石清水八幡宮の支配を受けるが,蒙古襲来の際,異国警固番役の課役地として豊後守護大友頼泰が香椎・多々良を担当したことにより,香椎に守護領が設置され,以後戦国期に至るまで大友氏の支配を受けるようになる。四党とよばれた香椎大宮司家の1つである三苫家に伝わる中世文書には,16世紀における香椎宮と大友氏との関係がうかがわれる。当社の北約3kmにある立花山には大友氏の城が築かれ,大友氏勢力の西の拠点となっていたが,天正14年北上してきた島津氏の攻略を受け,その時香椎宮も火を放たれ灰燼に帰した。社領も九州出兵に下向してきた豊臣秀吉によってすべて没収されたが,後に筑前領主小早川氏や黒田氏が神田を寄進し,社殿も建立されて再興した。しかし「続風土記」によれば,古来16坊あったという天台系の社僧の坊もほとんど廃絶し,江戸期には護国寺を残すばかりであった。当社の本殿は香椎造とよばれる形式で,享和元年福岡藩主黒田長順の建立で国重文。例祭は10月29日。4月17日の春季大祭と10月17日の秋季大祭には県無形民俗文化財の獅子楽が奉納される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7210016 |