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嘉穂炭鉱
【かほたんこう】


嘉穂郡筑穂町にあった炭鉱。筑豊炭田の南西隅に位置して地層上独立区域をなすので,大分炭田とも呼ばれた旧上穂波村と大分村にまたがる地域は,最も深い炭層で深度300mと比較的浅いうえ,三尺五尺累層(本層群)および大焼累層の各炭層に恵まれていたが,ここに最初に本格的な進出を試みたのは貝島太助であった。明治21年大之浦の鉱区を増区するとともに,同年に上穂波村北古賀・長尾地区に約62万坪の借区を得た彼は,同30年頃に小さな横坑によって小規模に採掘した石炭をガラにして,現飯塚市若菜のかわひらた(川艜)発着地点まで馬車で運搬したといわれる(嘉穂炭鉱史)。ところが大之浦の開発に手一杯で,この地域の増区を一時休止した貝島に代わって,同27年から同31年にかけて中野徳次郎が大分炭田の中央部,上穂波村元吉・馬敷・北古賀および大分村大分にわたる155万坪の鉱区を買収統合して,松本健次郎との共有とした。同29年以後,再びこの地域の鉱区買収にかかった貝島は,大正6年までに中野・松本鉱区を馬蹄形に取り囲むおよそ330万坪を確保して,大分炭田は両者によって分割された。しかし遠賀(おんが)川の最上流に位置し,市場との距離も遠いことから開発は遅れ,貝島炭鉱が第1次大戦ブームに乗じて大正7年から笹江地区に開坑した大分坑は,同9年戦後恐慌によって出炭に至らぬまま休止した。中野商店も開坑の準備として同7年から元吉地区の用地買収にかかり,同9年に7万坪を買収し終わったが,着工の時期を待つ間,引き続き大分地区の用地買収を進め,同15年までに46万8,000坪を確保した。他方,大正7年に炭層調査に入った明治鉱業は,同10年9月から2年4か月にわたる試錐作業を行った結果,同15年12月4日,この両者によって資本金300万円の嘉穂鉱業が設立され,松本健次郎が社長に就任した。新会社は長尾~原田間の鉄道建設に照準を合わせて上穂波駅の誘致をはかる一方,昭和2年11月上穂波坑を開坑,馬敷の鉱区境まで1,550mの2本の斜坑が掘削され,当時としては先駆的な後退式長壁切羽が準備された。同4年6月,本卸・連卸坑道が完成し,営業出炭に入ったが,カッター・コンベアーを導入し能率向上に努めたので,在籍1人1か月当たりの能率は同8年で32.1tと全国平均18.9tを大きく上回り,昭和恐慌の中でも高能率のモデルマインとして生産を伸ばし,景気が回復した同10年には30万tを突破した。周囲を取り巻く貝島鉱区は昭和2年久原鉱業に移った後,久原の再建に当たった鮎川義介の日産の,鉱業部門である日本鉱業に引き継がれ,さらに同9年その石炭部門が日本炭鉱として独立するに及んでその所有となった。その間,昭和8年末に嘉穂鉱業と日本鉱業との間で一部鉱区の交換が行われたが,同11年に日産コンツェルンが旧満州に移転したのち,原料炭確保の目的でこの鉱区を入手した日本製鉄が,同13年これを現物出資して嘉穂鉱業の経営に参加した。こうして大分炭田を統合し,資本金600万円・鉱区面積464万坪となった嘉穂鉱業は,大分鉱区で五尺坑(後の3坑)・新三尺坑(のちの大分坑)を次々に開削し,同18年には40万tの出炭を記録した。その頃既に資材難と応召による労働力不足から生産は衰退に向かい,坑内直接夫の半数以上を朝鮮人労働者に依存するようになった。戦後いったん激減した生産は,その後傾斜生産の時期を経て徐々に回復し,同25年には30万tに達した。さらに合理化と経営基盤の強化が叫ばれる中で,同28年2月長崎鉱業との合併によって,嘉穂長崎鉱業となり,翌29年9月,日鉄鉱業と合併して同社嘉穂鉱業所となった。昭和26年からカッペ採炭を採用したこの炭鉱では,同31年以降坑内鉄化と採炭機械の導入を進め,厚層はスライシング採炭法,薄層はホーベルの導入によって能率向上を図った。他方同33年,新卸の開削によって上穂波坑の原炭を大分坑坑外に揚げ,新鋭選炭機による集約選炭を行うなど,すべてにわたって簡素化と集約化を進めたので,生産は同40年度に50万tを達成し,在籍1人1か月当たり能率も40.1tを記録した。しかしその後各坑とも終掘に近づき,同44年,ついに閉山となり,翌45年6月石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金の交付が決定した。上穂波坑操業以来,41年間に採掘された石炭はおよそ1,200余万t,労働者数は最も多かった昭和24年で2,719人であった。




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「角川日本地名大辞典」
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