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上山田炭鉱
【かみやまだたんこう】


山田市と田川市,田川郡川崎町にまたがってあった炭鉱。三菱は明治23年9月平岡浩太郎から嘉麻郡碓井(うすい)村,稲築(いなつき)村にまたがる123万坪の鉱区を譲り受け,同25~35年に碓井炭鉱として稼行したが,この鉱区から東へ約4kmの同郡熊田村下山田の鉱区60万坪を,同27年9月に代金3万5,000円で安場保和から買収した。次いで同28年3月,嘉麻郡熊田村上山田と下山田および田川郡猪位金村と安真木村にわたる約170万坪を,代金9万円で松岡嘉七郎から譲り受けた。この鉱区は,明治25年3月,上山田人民総代松岡弥一郎ほか7名が許可を受けたものを,同年5月松岡嘉七郎ほか1名に譲渡したものであった(三菱筑豊炭礦史年表)。三菱は上山田を鯰田炭鉱所管として試掘を進めた後,同31年9月,第1坑(本坑)を上山田柿ノ木に開坑した。同32年2月には第2坑を上山田尾浦に開坑,同7月には人力によっていた運搬・排水を蒸気機械に置き換えた。同34年6月,九州鉄道が上山田まで開通し,近くの碓井炭鉱が同35年4月に休止したため,資材の一部と坑夫の大部分を納屋頭とも受け入れ,本格的な稼行に入った。同35年の生産は3万8,100tと前年の5倍以上となり,さらに同37年1月に第3坑が上山田木城に開坑されたこともあって,同年の生産は6万8,727tとなった。この炭鉱は三尺五尺累層の八尺炭と六尺炭および竹谷累層の竹藪八尺炭を主に採掘したが,火山岩の影響で一部無煙炭または煽石と化し,さらに焼化がひどい箇所もあって坑内条件の変化が激しく,加えて筑豊の最奥部に位置したため景気変動などの影響を受け易かった。薄層で炭質の劣る第3坑は,日露戦争後恐慌の中で同42年9月閉鎖され,炭質の良い第2坑も大断層に逢着して,同45年7月に閉鎖された。断層先開発のため,同45年に開削された新2坑は,大正2年八尺層に着炭し,同5年には鯰田炭鉱から独立するとともに周辺鉱区を買収し,翌6年には上山田の百谷に百谷坑,木城に第4坑を相次いで開坑した。この頃,第1次大戦の好況で坑夫募集が困難となり,朝鮮人坑夫200名を雇い入れた。同7年当時の出炭規模は約17万tであったが,採掘が深部へ移行する見通しから竪坑開発が計画され,同10年から同13年にかけて,深さ417mの当時筑豊随一の竪坑が開削された。付帯設備および専用鉄道が完成して,第1坑の出炭を竪坑から送炭するのは昭和4年1月となったが,この間,百谷坑・第2坑・第4坑を逐次休止する反面,同2年に第5坑(百谷坑)を再開,同3年6月には隣接する帝国炭業中山田炭鉱を買収したので,同年の出炭は36万tに急増し,鉱区面積も同8年に389万坪となった。昭和恐慌の際には在籍労働者数が,昭和4年末の2,982人から同6年2月に1,119人に激減し,生産も約22万tに落ち込んだが,同8年に炭況が回復し,戦時に向かって増産態勢に入った。同11年に40万t台,同13年には50万t台を達成し,同17年には53万6,311tの記録をつくった。この年12月の在籍労働者は3,732人,うち坑内夫2,953人であった。しかし第2次大戦末期から生産は激減し,同21年以降,20万t台で推移した。同30年以後,合理化により切羽の集約や煽石の採掘でしばらく安定した操業を続けたが,同35年,炭層の焼化など採掘条件の急激な悪化から深部を放棄し,古洞残炭と竪坑周辺の保安炭柱の採掘に転じた。同37年には組合との間で新会社の設立を条件に閉山交渉がまとまり,5月31日60余年の歴史を閉じた。この炭鉱で掘られた石炭は合計1,501万余tであった。なお第二会社上山田炭鉱(年産10万1,367t,労働者数324人)は同43年1月石炭鉱業合理化事業団より閉山交付金を受け,同第二上山田炭鉱(年産5万7,159t,労働者数145人)は同45年12月同様にして消滅した。




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「角川日本地名大辞典」
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