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萱堂町
【かやどうまち】


旧国名:筑前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は博多の1町。那珂川下流と御笠川下流に挟まれて位置する。横町筋の市小路浜と奥小路町を結ぶ縦筋町(三奈木黒田家所蔵福博古図)。元禄年間は茅堂町東と茅堂町に分かれ,茅堂町東は家数14で呉服町流のうち,茅堂町は家数18で西町流のうち。なお当時は茅堂とも書き,町名の由来は,茅堂という博多七堂の1つがあったことによる(続風土記)。宝暦年間には1か町として見え,呉服町流のうちで,家数33,間数76間余(石城志)。町の東側に禅宗萱堂山光西寺があった。本尊は魚腹地蔵。俗説に,六郎知景という者が,地蔵信仰の厚かった亡母の形見の鏡で地蔵菩薩を作り,お守りにしていたが,旅の途中海水に落とした。安芸の厳島で再び戻るようにと祈った甲斐あって,赤間関で買った鮫の腹から紛失した地蔵が出てきた。喜んだ知景は地蔵を本尊として光西寺を建てたという(続風土記付録)。船人は海路無難の守札を同寺から受け,信仰を集めたが,明治5年に廃寺。しかし,地蔵は人家に囲まれて現存している。寛保3年の大風で船1艘が破損し,死者3名の被害を受けた(博多津要録)。慶応2年当時,最大の店は代呂物問屋の伊右衛門で,銀138匁を納めた(博多店運上帳)。明治12年の戸数37・人数163,民業は工5戸・商23戸・漁業1戸・雑業4戸(福岡区地誌)。明治11年福岡区,同22年福岡市に所属。同年の戸数46・人口276(福岡市誌)。明治15年県は福博に散在している町芸者を風紀上の理由で当町に定住させた。博多芸者発祥の地である。同20年頃には10余名で萱堂芸者と呼ばれた。同21年には有志により釜屋町との間に新道を開通させ,3階建ての山海楼や大寿楼などの料亭・待合を新築,新萱堂と命名した。翌年相生町と改め,相生券番が置かれた。同34年芸妓同士の紛争で一部分裂した芸妓が水茶屋に移るという騒動もあったが,同43年には150名をかかえる券番に発展した。しかし次第に,中洲歓楽街に押され,昭和18年解散。当町もこの相生町の発展とともに待合・料亭・芸妓相手の商売で繁昌したが次第に寂れた。同20年の空襲で全町全滅。戦後下市小路に横道が通り十字路となった。同41年奈良屋町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210424