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河北荘
【かわきたのしょう】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。筑後国御井郡のうち。京都北野社領。筑後平野の北部に位置し,筑後川北岸にあったことが荘名の由来となったのであろう。現在の北野町と大刀洗町南部の冨多・三川地区を含む範囲と推定される。荘の南部は筑後川を隔てて竹野新荘(西大寺領)と相対し,一部同荘の河北郷が本荘域内で錯綜していたと考えられる。史料で確認できる本荘関係の名田は,弥富・光富・徳光などわずかであるが,荘園村落としては大城・高島・江戸・新田・原元・香食などがあり,このうち大城には南北朝期以後太宰府天満宮安楽寺領の大城荘が成立した。本荘の成立時期は明らかでないが,領家北野社では平安末期の仁平~永万年間に,藤原姓の大監家実・家兼らを当荘の地頭・下司職に補任したと見られ(梅津文書/県史資料10),従って本荘の立券はおそらくこの府官系藤原家実ら一党による土地集積と北野社への寄進に基づくものではないかと考えられる。鎌倉期の元久元年に,幕府は河北荘における地頭家兼の非法を停止し,社家の進退に付しているが(北野社文書/早稲田大学所蔵文書),この地頭家兼は,前記梅津文書に見える地頭兼下司大監藤原家兼朝臣と同一人物であろう。こののち北条朝時が当荘地頭職に任じられたこともあるが,嘉禄3年に社家の訴えにより停止された(北野社文書/鎌遺3652)。一方家兼の跡とみられる家重代基空が,寛喜3年下司職に補せられたが,弘安3年,家重(北野氏を号す)は北野社雑掌と本荘地頭職を争って敗訴,関東に起訴したが再び退けられ(同前/鎌遺13911・15104),幕府滅亡後家綱はこれを建武政府に提訴して復権を計ったが却下された(同前/南北朝遺3273)。南北朝期以降になると,戦乱を背景に漸次荘園の崩壊が進行した。在地では北野一族の家兼や民部丞家俊および草野一族の赤司土佐入道らが実力で下地支配を強行(北野林松院文書/筑後国史),また室町期には筑後に土着した五条氏が本荘内200町を領して菊池氏に従っていた。五条氏と河北荘との関係は五条頼治が良成親王から本荘内合田一族跡を安堵されたのが最初であるが(五条家文書/纂集),以後河北荘は同氏知行所の中核となった。こうした状況は社家側の史料によれば,「当荘徒成軍勢濫妨之地,厳重之社用多以闕怠」(北野社文書/大日料6‐38)とか,河北は「為当社最初之神領之処,先年九州忩劇以来,社家令不知行候」(北野社家日記/纂集)などといわれた。しかし,戦国期になって河北荘をその支配下に組み込んだのは筑後の有力国人草野氏である。同氏は鎌倉期以来竹野新荘河北郷を開発,その庶子家が大城・赤司などに住して南北朝期には独自の動きを見せていたが,戦国期になって五条良邦が三原郡へ知行替えとなった後,文亀年間に草野惣領の重永が大友義長から北野250町を預けられ,河北荘の大半を掌中にした(草野文書/県史資料4)。当時北野社の支配は危機に瀕し,永正9年に在地の北野座主坊が豊後に直参して大友氏にその窮状を訴え,かろうじて神領の半分を回復できた(北野林松院文書/筑後国史)。同年草野重永は北野座主坊に宛てた書状(同前)の中で「北野庄」という表現を用いているが,これは河北荘が崩壊し,新たに草野氏による北野支配が成立した結果生じた地域概念と思われ,これが近世初頭の北野村へと継承されていくのである。なお河北荘の荘号は,社家側では近世初期の元禄年間頃まで使用されていた。現在北野町にある北野天満宮は当荘の鎮守社であった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210457