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観世音寺境内および子院跡
【かんぜおんじけいだいおよびしいんあと】


奈良期中葉に完成した寺院の境内とその子院。太宰府市観世音寺字堂廻を中心に,坂本・国分などに所在。国史跡。斉明7年に斉明天皇は百済再興支援を指揮するため筑紫に下ったが,同年7月に朝倉橘広庭宮(朝倉宮とも。遺跡は朝倉郡朝倉町山田付近に比定されるが,具体的な位置は未確認)で崩じた。当寺はその子の天智天皇が母帝の追善供養のために発願したといい,約80年を要して天平18年6月に完成した。天平宝字5年に設けられた戒壇院は日本三戒壇の1つに数えられ,大宰府政庁の庇護のもとで西海道第一の寺院となり,大宰府管内諸国島の寺院や僧尼を統轄した。平安前期頃までは大いに栄えたが,中期以降にはしばしば火災や大風などで堂塔が失われ,やがてはその再建も行われなくなるなど,次第に衰微し,保安元年にはついに東大寺の末寺となった。その後,室町期には境内も荒廃し,特に戦国期には兵火にもかかり,かろうじて存続している状態であった。しかし元禄年間に至り,福岡藩主黒田光之の援助などによって,金堂と講堂が再建され,また,戒壇院が分離独立するなどのこともあって,ほぼ現在の寺容となった。この地は国特別史跡の大野城跡が所在する四王寺山地の南山麓に位置し,史跡指定地の総面積は約86.5haにも及ぶ。また,西方には国史跡の大宰府学校院跡と国特別史跡の大宰府跡(政庁跡,都府楼跡とも)とが境を接して所在し,これらは密接な歴史的関係を有しているので,現在は便宜的に大宰府史跡と総称される。かつての当寺は3町(約327m)四方の寺域を占めていたと推定され,その位置は大宰府条坊制を考える上でも注目されるが,条坊制そのものについては,検討を要する点が少なくない。初期の伽藍配置やその規模などは,現存する礎石あるいは延喜五年観世音寺資財帳(平遺194)などからうかがうことができ,基本的にはいわゆる法起寺式の伽藍配置と考えられるが,東面していたと推定される金堂のあり方は特徴的である。近年,大宰府史跡の一環として九州歴史資料館による発掘調査が進められ,僧坊跡など伽藍遺構の構造が次第に解明されつつある。また,各種の土器や瓦をはじめ,唐三彩など盛時の当寺をしのばせる多くの遺物が出土し,それらは同館に保管展示されている。「続風土記」は,当寺が49の子院を擁していたと述べ,うち48子院の名を列記。現在はこれに基づいて境内の後背地一帯が子院跡に比定される。そこでは一部に子院名と一致する地名も見られ,子院の存在を傍証しているようでもあるが,ほかに徴すべき史料は見られず,詳細については必ずしも明らかではない。例えば,境内の北方約500mに位置する大字観世音寺字今光寺(こんこうじ)地区では,昭和28年には九州大学を中心とする九州文化綜合研究所が,次いで同53・54年には九州歴史資料館が発掘調査を行い,庭園を伴った14世紀頃のものとみられる建物跡が検出された。子院の1つとされる金光寺に小字名が音通することから,その遺跡かとも考えられているが,確証を欠く。当地方が中世に活躍する少弐氏の本拠地であり,出土遺物の中に「十くわんとう四郎」と記された中世木簡や櫛,大量の宋銭が含まれていることなどを考慮すれば,武士などの居宅跡の可能性も想定され,いまだ検討を要する点が少なくないが,今後の調査や研究の進展がまたれる。その場合,当寺に近い太宰府字横岳では仁治元年に横岳山崇福寺が開創されているので,それとの関係も考慮しなければならないだろう。なお,現在の境内では,7世紀末頃に鋳造された国宝の梵鐘が見られるほか,前記の金堂と講堂はともに県文化財で,僧房跡は発掘調査の結果に基づいて平面復原されている。また,収蔵庫(宝蔵)は同34年に建てられたものであるが,平安後期から鎌倉期にかけての頃に作られ,国重文の,15件18の仏像や木造舞楽面や銅製天蓋光心など多くの美術工芸品が保存展示され,かつての繁栄ぶりを今に伝えている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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