100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

行町
【ぎょうのちょう】


旧国名:筑前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は博多の1町。那珂川下流と御笠川下流に挟まれて位置する。土居町流のうち。西の古門戸町と東の蔵本番に挟まれた縦筋町で,古門戸町と蔵本番に通じる2つの横筋町があった(三奈木黒田家所蔵福博古図)。町名は,弘法大師が大同元年唐から博多に帰着し,博多の海辺に東長寺を建て勤行したことにより,はじめ勤行の町としたが,のち略したという(続風土記)。東長寺はのち御供所町に移された。元禄年間には,町は上・下に分かれて記され,家数は上22・下25(同前),宝暦年間の家数48,間数125間余(石城志)。寛文7年当町の六之允が津中7名とともに古道具・せり物問屋の営業を許可された。元文3年には,門番甚蔵が親孝行により青銅壱貫文を拝領した。宝暦2年,又右衛門が元結・びん付・刻みたばこの出店を願い出て,祇園祭礼時には取除くという条件で許可されている。また,寛保3年には,当町と浜小路にあった旅座頭宿の木賃が60文と改められた(博多津要録)。慶応2年当時の当町には下足・生魚・飴・豆腐・石炭小売などの店があり,桶・鍛冶・髪結・白銀細工などの職人が住んだ。呉服店の紅屋宗七は博多でも屈指の大店で運上銀175匁を納めた。そのほかの大店には,かみ結善助(唐物・紅絞小売・太ト物),吉野屋卯助(唐物問屋・綿打・代呂物店)が知られる(博多店運上帳)。吉野屋一族は明治期も和洋糸綿店・和洋反物店・洋品雑貨店などに分かれて繁昌した。明治4年の町格は上の下(石城遺聞)。同7年第一大区調所6小区役場が当町に置かれた。明治11年福岡区,同22年に福岡市に所属。同年の戸数65・人口376(福岡市誌)。万利旅館の主人,看板屋ペン梅の主人は博多にわかで万利組,ペン梅組の主宰者として有名であった。江戸期から続く紅屋は「紅宗」といわれ,明治12年福博第1回誓文晴の加盟店として名が見られ,同21年に有志による私的機関として結成された福岡商工会の事務所も紅屋に置かれた。また同20年には九州鉄道創立事務所も紅宗に置かれた。昭和20年の空襲で全町全滅。戦後の区画整理で昭和通りが開通し,町の中央を横断され人家は半減した。2つの横町筋は一直線となった。同41年綱場町・奈良屋町・古門戸町・下川端町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210718