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国玉神社
【くにたまじんじゃ】


豊前市求菩提(くぼて)にある神社。旧郷社。祭神は顕国霊神・伊弉諾尊・伊弉冊尊。神仏分離までは修験道の霊山で求菩提権現,寺号を求菩提山護国寺と称していた。古くは彦山六峰の1つ,室町期に聖護院の傘下に入り天台宗本山派に所属した。社殿は求菩提山山頂に上宮,8合目付近に中宮,山麓に下宮と3社構成をとっていたが,下宮の山神社は明治初期鳥井畑の須佐神社に移され,中宮の大講堂跡に社務所を設けた。修験道時代には白山大権現と地主神を併せて二所権現を称し,中宮には山王21社を祀っていた。中宮境内に鬼神社がある。開山説話は,継体天皇25年猛覚魔卜占が山頂に金光を見て顕国霊神の神祠を建て,威努岳(いぬがたけ)の悪鬼を調伏したというのに続いて役行者の入山を伝え,さらに養老4年行善和尚が白山権現の神託により入山,山頂の霊石に十一面観音の尊像を拝して白山権現と地主神を祀り,寺を建てて護国寺と名付けたという(求菩提山雑記)。伝承はこのあと仁聞や最澄の入山を伝えているが,中世末期の撰述と思われる「求菩提山縁起」では頼厳が保延年間に入山,堂社を修復して山王21社を勧請,康治元年には千日行を創始して中興の祖と仰がれたとある。山内の修行窟からは頼厳の納経を示す経筒が出土し,なかでも普賢窟から発見された康治3年銘の銅板法華経33枚と銅筥は著名で,国宝。求菩提山の修験道はこの頼厳と六哲と呼ばれる人びとによって基盤が築かれたと思われるが,その動向を示すものとしてこれまでに出土した経筒は約50口にのぼり,現存する仏像・神像の半数以上は平安末期から鎌倉初期にかけての作品といわれている。一山の構成は「縁起」によれば,六所権現(求菩提山周辺の六峰),五窟,六院があり,西方築城(ついき)郡に春峰,東北上毛郡に秋峰修行の行場を設けて金胎一実の曼陀羅を表示していたという。明応3年,聖護院より一山に28人の長床(大先達)が免許され,座主を置き,守護不入の特権と30町の寺領を有し,全盛期には僧坊500を唱えていた。しかし,室町末期の大内・大友の争乱にはその地理的位置から戦塵を避けられず,ついに大内氏の強い支配下に入り,その政治的支配は近世豊前藩主小笠原氏にも受け継がれ,歴代座主もその一族によって世襲されることになった。以後,享保20年には152坊,慶応3年には73坊と衰退の一途をたどり,神仏分離によって求菩提山護国寺は廃止され,国玉神社となった。修験道の時代,一山の宗教行事は年中133座といわれ,神道・仏教・修験の多彩な行事がみられたが,現在に受け継がれているのは3月29日の御田植祭だけで,県無形民俗文化財に指定されている。そのほか求菩提山経塚出土品は国重文,求菩提山文書は県文化財,求菩提山修験道遺品は県有形民俗文化財で,いずれも県立求菩提資料館に収蔵されている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210832