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求菩提修験道遺跡
【くぼてしゅげんどういせき】


古代以来の祭祀および修験道関係遺跡。豊前市求菩提を中心に,岩屋・鳥井畑など広範囲に所在。県史跡。求菩提山はもともとは美しい山容や山中の巨石群などを磐座とする自然信仰から発した古代祭祀の場所であったと思われる。平安末期には頼厳が諸堂宇を造立し,山伏出世の法則を定めるなど,当山修験道の基礎を確立し,やがて一山500坊を数える修験道の一大道場に発展した。なお,頼厳は大永年間に山中の普賢窟から発見された「銅板法華経」(国宝)にも大勧進としてその名が見え,康治元年の銘がある。また,この前後の時期には盛んに経塚が営まれたらしく,昭和50~52年に行われた発掘調査では多くの経筒が発見された。これらの経塚は修験回峰行の道に沿って点々と営まれるが,不明な部分が少なくないので,今後の調査の進展が期待される。その後の当山における修験道は,同じく豊前の英彦山のそれほどには一般化しなかったともいわれるが,明応3年以降は京都の聖護院に属し,護国寺を中心に活動した。座主・別当以下の組織を備え,江戸期には北九州だけでなく,周防・長門地方にまで檀家組織を有するなど,鎮西修験道の一翼を担った。しかし,明治5年に修験道が廃止され,当山でも護国寺を廃して国玉神社に改宗した。国玉神社は山頂近くに鎮座し,付近には講堂や多宝塔などの遺跡が所在する。周辺には,普賢窟など求菩提山五窟をはじめとする洞窟や禊場などの修験行場があり,南方の犬ケ岳や経読岳などにかけて回峰行の道が設けられ随所に行場が所在する。また,中腹部や谷などには山伏およびその家族などの住居,すなわち坊や茶畑などの跡があり,近代以降は山が無人になったこともあって,これらの関係遺跡は破壊されることなく保存されてきた。このほか,東方の松尾山(築上郡大平村西友枝字松尾)の医王寺をはじめ,周囲には求菩提山六峰と称する6末寺が配される。昭和49年に求菩提山東山麓の鳥井畑に県求菩提資料館が設置され,国重文に一括指定されている豊前求菩提山経塚出土品や県有形民俗文化財の求菩提山修験道遺品など,山岳宗教・修験道・山伏関係の遺物や各種の資料が保管・展示されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210852