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久留米藩
【くるめはん】


旧国名:筑後

(近世)江戸期の藩名。筑後国久留米を居城とし,筑後国御井・御原の両郡,生葉(いくは)・竹野・山本の上三郡,三潴(みずま)郡,下妻郡および上妻郡の大半を領有した藩。朱印高21万石。外様・大広間詰。初代藩主有馬豊氏は,播磨国淡河の領主則頼(慶長6年摂津国有馬郡三田2万石へ転封)の次男として生まれ,豊臣秀吉の人質となったがやがて彼に仕え,文禄4年遠江国横須賀に3万石を領有した。秀吉没後は徳川家康に仕え,会津征伐から関ケ原戦の功績によって丹波国福知山城6万石に移封され,慶長6年には父の遺領を継いで8万石の領主となった。大坂の陣に出陣し,元和6年長年の功績によって北筑後の久留米への加増転封となった。これにより当藩が成立した。所領は,「寛文朱印留」によれば,筑後国御井郡一円71か村・3万6,165石余,御原郡一円35か村・2万587石余,生葉郡一円54か村・1万2,675石余,竹野郡一円89か村・1万2,397石余,山本郡一円30か村・1万2,474石余,三潴郡のうち128か村・7万5,389石余,上妻郡のうち93か村・2万5,169石余,下妻郡のうち25か村・1万5,140石余の合計21万石,「旧高旧領」では三潴郡のうち137か村・11万8,724石余,下妻郡のうち27か村・2万2,390石余,上妻郡のうち97か村・6万9,005石余,生葉郡一円59か村・2万6,882石余,竹野郡一円89か村・2万2,875石余,山本郡一円30か村・1万6,559石余,御井郡一円72か村・5万6,528石余,御原郡一円36か村・3万3,304石余。元和7年春入国した有馬豊氏は,旧柳川藩田中家(嗣子なくて断絶)の旧支城を拠点と定め,城域を広めて久留米城を築き,次第に城下町を整備拡充した。家臣団は,大幅な領地の増大に応じ,主として前領主田中氏の遺臣を召し抱えて補充した。内高ははじめ32万石としたが,元和9年28万石(本高)に改めた。寛永14年の島原の乱では,出陣総数7,300余人中26%にあたる死傷者を出した。在陣中の兵粮米1,110石,諸入用銀7貫660目。2代藩主忠頼は,同19年の異国船長崎入津をきっかけに海軍を設立し,正保2年には城西の洗切(筑後川岸)をその基地とした。この時,下流の川沿いに瀬ノ下町を新設し,城下町への物資輸送の拠点として川港の性格を付した(久留米藩には直接海に面する箇所がない)。忠頼はまた,浄土真宗本願寺西派を領内から追放して,東派による支配体制を完成させ,慶安2年には大庄屋に給米制を施行して,藩支配の末端役人として位置づけた。久留米藩の農村支配機構は,この時点までには完成したと考えられ,全藩域を25組に分けて大庄屋を配し,各組の村ごとに庄屋と数名の長百姓を置いた。文化年間の組名・内検高・町村数は,生葉郡に石井組1万2,191石・町1・村29,田代組1万1,362石・村27,竹野郡に亀王組1万864石・町1・村47,唐島組9,637石・村41,山本郡に柳坂組1万5,887石・村30,上妻郡に川瀬組1万1,236石・村21,本分組6,322石・村16,忠見組1万782石・村14,福島組1万1,530石・町1・村14,江口組1万4,143石・町1・村20,新庄組1万2,434石・村17(下妻郡7か村を含む),下妻郡に中折地組1万6,591石・村18,御井郡に安居野組・町1・村17,北野組1万3,073石・村20,五郎丸組1万4,002石・村14,用丸組1万2,597石・町1・村15,高橋組1万63石・村22(半数は御原郡),御原郡に岩田組1万4,623石・町1・村22,三潴郡に夜明組1万4,764石・町2・村15,津福組1万4,098石・村19,福光組1万4,105石・町3・村22,城島組1万3,642石・村17,江上組1万7,599石・町2・村21,中木室組1万5,174石・村15,蛭池組1万4,377石・村22。17世紀中頃には五ケ村庄屋組合が,また18世紀後期には大庄屋会議(全体会議である総郡会,四大郡ごとの参会)が定期的に開かれ,全藩域あるいは数組に関係する事項や重大事項の合議による解決がはかられ,情報交換も盛んに行われた。また忠頼は,承応2年土免制を採用し,過去10か年に収納した物成の平均をその後の物成収納の基準とすることによって,豊凶をならし安定した収入を図った。2代忠頼から4代頼元(17世紀中頃から18世紀初頭)の時代は,新田開発や灌漑設備の整備拡張が盛んに行われ,生産高も急上昇した時期である。寛文8年には御原郡内において1万石を忠頼の養子有馬豊範に分与し,豊範は松崎に居所を営み,松崎藩が立藩された。しかし,豊範は義兄の陸奥窪田藩主土方雄隆の家中騒動にまきこまれて貞享元年領地を没収され,幕府領とされたが,元禄10年久留米藩に返還された。一方では藩財政が次第に急迫しはじめ,頼元の延宝3年には初めて家臣に上米を命じ,天和元年には初めて藩札を発行した。10年後の元禄3年は,予算上銀2,661貫目の不足を生じて上方からの借銀に頼らざるを得なくなり,同15年には新しく検見役を設けて収奪の強化をはかったが,財政難を克服することは出来なかった。元禄3年の予算書によると,蔵入高は,蔵入本地12万4,050石,明所方1万9,932石,本地出目1万1,566石,開方9,347石で,合計16万4,895石となっている。また収入は,現物(米・大豆)収入が6万3,421石,銀貨収入が689貫目である。支出では,江戸入用が1,250貫目で全銀費支出中の45%を占め,次いで参勤交代費用と京都・大坂への借銀返済分がともに17%で,この3項目だけで全支出の約80%にも及んだ。6代藩主則維は,宝永3年血統の絶えた有馬家を継いだ。同7年の江戸吹上代官町手伝い普請に際しては,財政難を理由に初めて在町に対して出銀を命じ,家中召使男女・浪人・町人および田地不所持・下男下女には人別銀(2匁から1匁5分)を,本百姓には反別銀(5匁から1匁5分)を課し,家中には上米(5歩から2歩)を命じて一時をしのいだ。手伝い普請に際し在町の資金に頼ることは以後恒例化した。正徳元年,則維は勝手方直裁を宣言し,積極的に改革に取り組んだ。翌年,まず領内の総検見・畝改めを開始して,それまでの郡中田畑開本地出畝(含む居屋敷)総数2万667町歩に,本畝出2,632町歩,開畝出1,415町歩を打ち出し,総畝数を2万4,714町歩とした。このとき検見役を従来の一郡受け持ちから総郡受け持ちに変えて強化し,また下見算用役(下見庄屋)を新しく設けて収奪の徹底化を図った。さらに徴租法に関しても,土免制から舂法に切り替えて3分の1上納と定め,2年後にはさらに課税基準を引き上げたうえで春免制に移行し,引き続き検地も実施するなど,大幅な貢租の増収とその固定化とを図った(正徳4年の物成高は13万7,230石,俵にして約41万俵)。しかし,この改革では,畝改めに用いられた竿が不当に短く,耕地面積そのものが実際より広く打ち出されるなどの不正が行われたとされ,農民の負担が一層過重になってその貧窮化を進め,享保大一揆の隠れた要因になった。則維はまた,大庄屋・庄屋に帯刀・脇差を許し,大庄屋への給米も藩蔵渡しに変更するなど,封建支配の末端である村役人の身分を権威づけ,農民支配を一層強化した。ところが,正徳の改革で貯えた財政的な余裕もまもなく食い潰すこととなり,享保13年,今度は夏物成改革に着手し,10分の1上納から3分の1上納という大幅な増徴を発表した。度重なる増徴に耐え兼ねた農民はついに立ち上がり,ほぼ全藩域におよぶ享保の大一揆によって,しかも一人の犠牲者も出さずに藩の改革を阻止することに成功した。藩政を指導し改革を実行した則維の寵臣は処刑され,則維も藩主の地位を子の頼徸に譲り引退した。享保17年,西日本一帯は虫害による大凶作に見舞われ,翌年春にかけていわゆる享保の大飢饉となった。同年の貢租は例年のわずか20%程度にしか当たらず,この飢饉での餓死者は1万1,198人とされるが,当初は病死扱いにしているから実際の餓死者数はもっと多いと考えられる。これによる田畑の荒廃もすさまじかったと考えられるが,詳細は明らかではない。7代藩主頼徸の代には,宝暦元年三潴郡向島村に領内最大の港として若津港を開いたことや,上妻郡の羽犬塚を盛大にし,宿駅本陣を整備するなど,領内の商業・運輸の発達が図られた。しかし,同4年,財政難対策として,領民全体に人別銀(一種の人頭税で1人あて銀札6匁)を賦課しようとして,全藩域に及ぶ宝暦の大一揆を引き起こした。この段階になると,農民の階層分化は一層進み,地主として成長してきた村役人層が中間搾取を強化して,転落する本百姓や小作人・名子などとの対立を激化させるとともに,また,発展してきた紅花や染藍・櫨などの商品生産的農業をめぐる対立も深めていた。一揆の指導者は村内の最も貧困な小作人や日雇い者であり,藩への要求のみならず各地域での小作料減免や村役人の不正の追及などでも闘った。大庄屋などの村役人宅は大規模な打毀にあい,全藩域にわたり2か月間にも及ぶ騒動が続いた。この結果,農民は人別銀の廃止や諸運上銀の廃止などの点で勝利したが,実に37名もの処刑者(村役人5名を含む)を出すに至った。藩の方も安易な増徴策がすでに通用しないことに気付いた。そこで以後は,享保年間より断続的に実施していた国産品を引き当てとする資金の前借政策(事実上の借金政策)を都市や農村の有力者を勝手方御用聞に任命して行わせる方法に切り替え制度化した。頼徸は大変学問を好んだ藩主で,優秀な学者を招いて儒学や自然科学の興隆を図ったが,彼自身数学に深い関心をもって研究し,ついに関流算学の奥儀をきわめ40種にも及ぶ書物を著した。中でも「拾算法」5巻は関流算学の秘伝を公開したもので,江戸期数学の発展に大変寄与したものである。8代藩主頼貴の時代(18世紀末から19世紀初頭)も藩は財政難に苦しんだが,頼貴は相撲を愛好して多くの力士を抱え,また多種の犬を買い集めるなどの浪費家であった。この時代の財政難対策は主として倹約の徹底であり,切り詰められるところは徹底して切り詰めようとした。また,天明5年には初めて米切手を発行し,寛政2・4年には家臣全員に増上米を命じた。同6年には家臣への知行米を豊凶に応じて(収納米の多寡に応じて)渡すことに変更した。知行支給の基準は,前年より2年続けて年貢米収納が著しく減った寛政4年に実施された半知(50%)であり,この年より収納が多ければ,半知の上に何%かを上乗せた額を支給するという方式である。しかし,寛政5年以降は比較的収納が安定したため,95%(130石以下の旅役の場合)~55%(無役など)が支給された。学問の面では,天明5年藩士子弟の教育機関として講談所を設け,のち城内に移して修道館と称したが,寛政7年焼失した。藩には財政的余裕がなく,一豪農の献金によって翌年再建され,藩校明善堂として整備拡充された。次の藩主頼徳の時代(19世紀前半)も著しい財政難であったが,歴代藩主中随一の多芸多趣味の藩主で,庭園や建物の築造,御庭焼柳原窯の創設,能舞台の設立や犬追物・鷹狩などに多大の資金を浪費した。財政難対策も倹約の域を出るものではなかったし,御用聞による資金獲得の行き詰まりから,文政10年新たに開始した大庄屋による蔵米売り捌き制度は,大庄屋層の困窮を招く結果となり,農村の窮乏に一層の拍車をかけることとなった。天保3年の生葉郡亀王組一揆は,調達した御用金の返済にあたり困り果てた大庄屋が,組の借財として農民にその返済を押し付けようとしたことから生じた一揆であるし,この制度の犠牲となって倒産した大庄屋は多い。9代藩主頼永は,天保15年から藩財政の立て直しをはかり,5年間の大倹約と借金の借り据えを軸に,風俗の矯正,兵制改革など積極的に取り組んだが,わずか3年後に病死して改革の成果を出せなかった。次の藩主頼咸は頼永の遺志を継ぐことが出来ず,頼永時代の改革派グループも二分して対立した。とくに開国後の政情混乱の中で,久留米藩においても政治の方針をめぐり対立抗争が生じたが,おおむね尊攘派が弾圧され佐幕的傾向をもつ層が藩政を担当した。元治元年ごろから,軍艦の購入や海軍の改革,大砲・小銃の生産などに力を入れ,国産会所仕法によりその資金獲得を図った。しかし,慶応3年の大政奉還,王政復古の大号令発布という歴史的転換の中で,幕末の藩政を牛耳った層は失脚し(明治2年10人が死刑となった),旧尊攘派が勢力を盛り返した。版籍奉還とその後の藩政改革を通して,彼等はその地位を固めていったが,明治3年,長州藩における反乱に失敗した大楽源太郎らを匿ったことが新政府の疑惑を招き,翌年いわゆる「久留米藩難」に発展した。旧藩主頼咸も呼び出されて尋問の後謹慎処分となり,大参事水野正名以下60余名が処罰(水野は終身禁固,明治5年獄死),ここに旧尊攘派はその勢力を失った。明治4年の廃藩置県で久留米県となり,同年末には柳川県・三池県と合併して,三潴県となった。久留米藩の人口(家中を除く)は,元禄10年13万8,133(男8万1,008・女5万7,125),うち大庄屋25・庄屋474・町庄屋21・僧徒社家685,牛馬総数1万3,067,安永9年の領民数は15万4,830(男8万9,815・女6万5,015)。元禄16年・宝永6年の家中士同妻子人数は2,048(男1,097・女951)・2,312,諸組諸裁判男女人数3,708(男2,607・女1,101)・4,030,家中侍共家来男女人数6,494(男4,118・女2,376)・7,357。




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「角川日本地名大辞典」
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