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高良大社
【こうらたいしゃ】


久留米市御井町にある神社。延喜式内社。旧国幣大社。祭神は高良玉垂命・八幡大神・住吉大神。筑後国一の宮。高良山の中腹に位置し,麓には里宮である高良下宮社がある。創建は履中天皇元年と伝えるが,史料上の初見は延暦14年従五位下に叙されたのが始めで,弘仁9年には名神となり,寛平9年に正一位に叙されている。「延喜式」神名帳の筑後国御井郡に「高良玉垂命神社〈名神大〉」と見える。社名は中世には「カハラ」(十巻本伊呂波字類抄伴信友校本),「かはら」(嘉禄元年9月12日宗清法印勧進帳/鎌遺3405),戦国末の「高良玉垂宮神秘書」はすべて「カウラ」で,現在は「こうら」と読んでいる。高良玉垂命の神格については諸説がある。物部氏祖神(高良縁起/高良玉垂宮神秘書・同紙背),藤大臣(高良玉垂宮縁起/同前),武内宿禰(二十二社註式/群書2)などである。一般的には武内宿禰と同一視されている。近世に久留米藩の命により祭神が武内宿禰に定められていたことによろう。近説では,「肥前国風土記」に景行天皇が高羅(高良)行宮にあって筑肥の経営を行っており,同天皇の子孫という水沼君の祖先神であり,さらにさかのぼれば筑紫平野の国魂神であったとされる。当社の最盛期は平安後期で,国衙の崇敬をえて勢威を拡大したが,源平の争乱期に高良山に反平家勢力が拠ったことなどから荒廃している(歴代鎮西要略)。文治4年に後鳥羽法皇の命をうけた醍醐寺座主勝賢の手で復興された(表白集)。蒙古襲来の際は蒙古調伏の祈祷を行い,のち鎮西五社随一の神社としての崇敬をうけ,延慶2年,正和元年,同2年などに蒙古調伏神恩報謝のため神領興行の下知が下されている(武雄神社文書,隈文書)。南北朝期にはこの山をめぐって南北両勢力の攻防があり,この時毘沙門岳城,住厭城などの高良山中の山城の多くが築かれたという。天授3年に征西将軍宮懐良親王は高良下宮社に願文をささげており,当社への崇敬が知られる。戦国期には,座主(丹波家)・大祝(鏡山家)・大宮司(宗崎家)は豊後大友氏の幕下として争乱に参加している。天正15年豊臣秀吉の島津攻めの際,社領は没収されたが,同年毛利秀包は秀吉の命により,1,000石の社領を寄進している。同19年45代座主麟圭は秀包に謀殺され,高良山は衰退したが,文禄3年,麟圭の子尊能が座主となり復興が始まり,同5年に改めて1,000石の社領が寄進された。慶長6年,田中吉政も秀包の後をうけて,社領1,000石(田中高)を寄進,元和7年筑後北部に入部した有馬豊氏もこの処置をうけついでいる。有馬家は高良山の復興を積極的に行い承応4年石造大鳥居,万治3年本殿・幣殿・拝殿などの造営を行っている。高良山は鎌倉期後半には,座主とその下にある伝法師・学頭・勧進(法の三職)と大祝とその下にある大宮司等によって運営されていたが,戦国末期には座主・大祝・大宮司のいわゆる「高良山の三職」によって運営され,これは江戸期を通じて変わらなかった。また,大祝と大宮司は近世初期に,高良社の祭祀をめぐって争論しているが,寛文7年,藩の介入によって大祝を大宮司より上位におく形で決着した。大祝はほぼ筑後北半の神社と社人,大宮司は南半のそれを支配していた。明治2年高良山にも神仏分離が断行され,座主は廃止された。同4年高良神社と改称,国幣中社となる。大正4年国幣大社に昇格。昭和22年社格廃止となり高良大社と改称した。主な祭礼は10月9日~11日の例大祭(供日祭)と6月1日,2日の川渡祭(へこかきまつり)である。供日祭(おくんち)にはかつて御神幸があった(享保2年再興)が現在は中断している。社宝として紙本墨書平家物語(国重文),高良大社所蔵文書(県文化財),高良山等から発見され奉納された考古資料や高良玉垂宮縁起絵など多数で宝物館で展示されている。神殿・幣殿・拝殿および麓にある石造大鳥居は国重文。社有地のほとんどは高良山神籠石(国史跡)の指定地内に入っている。国天然記念物のモウソウキンメイチクや県天然記念物の大楠がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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