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国分寺
【こくぶんじ】


京都郡豊津町国分にある寺。高野山真言宗。山号は金光明山。本尊は薬師如来。天平13年聖武天皇の詔により全国に建立された豊前国分僧寺。周防灘に向かって北流する今川と祓川に挟まれた丘陵の先端近くのほぼ中央部に位置する。この地は豊前国府推定地のすぐ南にあたり,大宰府から豊前地方に至る官道に面していたといわれる。付近一帯は古代豊前国の政治・文化の中心地でもあった。天平勝宝8年12月に灌頂幡・道場幡・緋綱などを領下された26か国の国分寺の1つとして見えるので(続日本紀),その頃には完成していた。「弘仁式」には国分寺料2万束とある。以後は史料に乏しいが,暦応3年10月25日の某安堵状は国分寺領塔田村の政所職を弓削田孫増御前に安堵している(南北朝遺1588)。「豊前国金光明四天王護国院国分寺略縁由写」は,国分寺の創設を述べたあと,次のように記す。豊前国分寺は経堂・戒壇・宝塔・山門・鐘楼等を設けた大刹で,山門内に6子院,6末寺を有したが,天正年間大友氏の兵火で焼亡した。子院心海院の僧英賢が旧趾に草庵を結び,本尊薬師如来を造立した。その後再び衰微していたのを,慶安3年に下毛郡大貞山南坊の尊応が霊場の荒廃を嘆き,里人と図って再建,寛文6年に本堂が完成した。寛文8年には,小倉藩主小笠原忠真が大般若経600巻を納め,米6石と若干の土地を寄進し,以後鐘楼・護摩堂・方丈等が整ったという。明治4年に観音堂,同28年に三重塔(県文化財)を建立。位置は,旧国分寺の塔地を意識し,それは広大な初層の規模に反映されているともいわれるが,両者が合致するかどうかはまだ確認されていない。昭和49年に豊津町教育委員会が本堂裏で発掘調査を実施したが,部分的な調査でもあったので,講堂跡と推定される遺構の一部を検出したにとどまり,正確な寺域や伽藍配置などは確認されていない。大正初期に,この付近一帯はかなりの規模で水田化のため地下げ工事が行われており,遺構がすでに削平された可能性もある。その工事や発掘調査の際に多量の瓦などの遺物が発見され,瓦のうち工事の際のものは国分寺に,調査によるものは町教育委員会に保管されている。豊前国分寺跡は国史跡。




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「角川日本地名大辞典」
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