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古渓町
【こけいまち】


旧国名:筑前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は博多の1町。那珂川下流と御笠川下流に挟まれて位置する。西町流のうち。東は奥小路町,西は妙楽寺町に続く横筋町(三奈木黒田家所蔵福博古図)。京都大徳寺の古渓和尚が,大徳寺山門に利休の木像を安置したことで秀吉の怒りに触れ,天正19年博多に下り,地内の大同庵に約3年住んだことにより町名となった(続風土記)。神屋宗湛・島井宗室は,大同庵に古渓をむかえ,茶道を通じての交わりを深めた。古渓が掘った点茶用の井戸水は古渓水とよばれ,火除けに霊験あらたかとして珍重された。大同庵の寺門と庵はのちに奈良屋番に移された(続風土記付録)。元禄年間の家数24(続風土記),宝暦年間の家数27,間数58間余(石城志)。博多魚町で活躍した魚商たちは,袖の湊の埋立てにより万治年間に藩の許可を得て当町に移転し,一大魚問屋街を形成した。寛文12年には,生魚を他国に出荷しないように,また浦からくる生魚を買ってはならないという御触が津中に出された。また,当町と洲崎裏町魚問屋および秋月藩領に行く魚商人は,書物・誓紙を出すこととされた。元文3年左野屋与三右衛門が残屋七右衛門の跡として,対馬商人中の希望により対馬問屋を命じられた。延享元年には当町問屋中の運上銀が20貫目に決まり,油屋利兵衛が取立役に就き白銀5枚を拝領した。宝暦9年には鰯町とともに運上銀の増額を命じられたがそのかわり相物入荷運上口銭を4歩8厘から5歩に上げることとした(博多津要録)。慶応2年の運上銀は6,000匁余にものぼる豪商の町で,相物・生魚問屋は16軒も名を連ねた。なかでも,西浜屋三右衛門(1,270匁),西浜屋仁吉(900匁),油屋喜平(880匁),今津屋八右衛門(850匁)などが高額上納者であった(博多店運上帳)。明治4年の町格も上の上で,間口48間余ながら定切銭5貫文余を納めた(石城遺聞)。明治12年の戸数23・人数124,民業は商19戸(福岡区地誌)。明治11年福岡区,同22年福岡市に所属。当町魚問屋は,博多最古の魚町時代からの伝統を持つ代々の地浦問屋であり,鰯町問屋は黒田氏入国以来の旅船専門の相物問屋が多く,互いに反目し合っていた。しかし明治13年,共同で干魚専門市場を付設した共同魚せり場を設立し,同25年には博多魚市となり旧市場として活躍した。一方同21年設立された海産商会は乾魚の委託販売所であったが,旧魚市場が乾魚も扱い出したのに対抗して海産物全般を扱う博多魚市場を設立した。しかし,海岸の埋立てや魚市場の建設により,問屋が移転し,大正期~昭和期にかけて次第に衰退していった。昭和20年の空襲により全滅。戦後の区画整理で道幅も広がり,町の中央から南に新道も開通して昭和通りに通じるようになった。同41年奈良屋町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7211134