採銅所
【さいどうしょ】

旧国名:豊前
「さいとうじょ」ともいう。彦山川支流の金辺(きべ)川流域に位置し,北端の旧企救(きく)郡境に金辺峠がある。地内の台地からは弥生時代の遺物,宮原からは内行花文鏡が出土している。地名は,古代の銅採掘施設名が転訛したもの。「豊前国風土記」逸文の鹿春郷の段には,金辺峠あたりを杉坂山と称しており,また,香春(かわら)三ノ岳には銅・黄楊・竜骨などがある,と記されている。奈良東大寺の大仏鋳造にも当地の銅が多く運ばれたという。香春三ノ岳の東麓にある「神まぶ」とよぶ地は,養老4年宇佐八幡神の神託によって銅を採掘したという伝承があり,このことでこれまで杉坂村と称していたのが採銅所村に改称されたとの伝えもある。仁和元年には破銅手一人,掘穴一人を豊前国採銅使のもとに送って豊前国民にその技術を習得させている。「延喜式」主税寮式によれば,鋳銭のための銅は豊前国・長門国・備中国から送ることとされており,豊前国からは「凡鋳銭年料銅鉛者,豊前国銅二千五百十六斤十両二分四銖,鉛千四百斤毎年採送」となっている。宇佐宮と採銅所との関係は,平安期以後宇佐宮の放生会のときや宇佐和気使の派遣(大神宝使)ごとに勅使が採銅所に来て当地長光家で鋳造した宝鏡(御正躰)3面を奉載して宇佐へ向かい,官幣とともに納めた。長光家ではこれらの神鏡の鋳造に当たって香春三ノ岳の神マブより銅を採った(長光家文書)。しかし,宇佐宮の放生会・行幸会の2大会ごとに勅使が下向し,採銅所長光家で鋳造した神鏡を奉載して宇佐宮へ納めたのは鎌倉末期までのようである。室町期にはこれらの行事も簡略化されたようで,永享5年12月13日付宇佐宮寺造営並神事法会再興日記目録の応永27年放生会条に,上古は勅使であったが,今は在庁出仕で官幣御正躰を持参,御正躰は豊前国採銅所より毎年奉進されるとある(到津文書/大分県史料30)。現在採銅所長光には清祀殿(県史跡)が残っているほか,天照大神御社,神宿殿,勅使殿,在庁官人小屋と伝える跡がある。
【採銅所村(近世)】 江戸期の村名。
【採銅所町(近世)】 江戸期~明治20年の町名。
【採銅所村(近代)】 明治20~22年の村名。
【採銅所村(近代)】 明治22年~昭和31年の田川郡の自治体名。
【採銅所(近代)】 昭和31年~現在の香春町の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7211290 |





