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早良炭鉱
【さわらたんこう】


福岡市西区姪浜にあった炭鉱。大正3年5月早良郡西新町炭鉱が坑区を合併して資本金70万円の福岡鉱業を設立したのと,同年12月,姪浜鉱業が早良郡姪浜町に早良炭鉱を開坑したのが始まりとされる(肥前炭礦誌など)。大正4年5月西新町炭鉱は三尺層坑道から下層にある五尺層斜卸第1ポンプ座に,口径6尺角,深さ93尺の竪坑を開削,7月に竣工した。同年10月9日,福岡炭鉱第2坑(姪浜町)で採掘に着手,大正6年末の坑夫数は男594人・女185人であった(本邦重要鉱山要覧)。大正5年末には福岡炭鉱の坑夫数が,男1,436人・女526人・幼年者135人,男1人1日の賃金は最高1円20銭,最低35銭と「本邦鉱業の趨勢」に記録がある。またこの年姪浜炭鉱では選炭用原動機として汽機2台およびランカシャー式汽缶(435馬力)3台を据え付け,桟橋の増築を行った。同6年1月,山本唯三郎が福岡炭鉱の坑区を譲り受け,同年3月末頃の姪浜炭鉱の坑夫数は約1,400人,採炭夫1日の賃金は最高1円50銭,最低80銭の記録がある。また同年5月福岡炭鉱では残柱式および長壁式を併用して,手掘りで採炭し,主要坑道に12~18ポンド軌条を敷設,炭車で坑外に搬出していた。この年8月3日福岡炭鉱第1坑の坑夫677人(全員)は,炭車1台につき10銭の値上げ,最低賃金70銭,労働時間短縮などを要求してストライキを行い,翌8月4日,賃金の5銭値上げで妥結した。同月第2坑では従来の万斛による選炭を改善するため鎧板式選炭機1台を設置した。同7年の米騒動の影響は姪浜炭鉱にも及び,8月29日,450人が米価引下げを要求して不穏の形勢となり,軍隊が出動して鎮圧した。しかし9月10日に再燃し,11日ストに入ったが,採炭1函につき5銭値上げで妥結した。この年9月9日,福岡鉱業は姪浜町との間に,町は市街地の採掘を認め,炭鉱側は鉱害補償および11か年間に8万円を町に寄付する契約を結んだ(筑豊石炭礦業史年表)。またこの年,姪浜炭鉱の出炭は20万t台で,福岡炭鉱も1坑・2坑合わせて20万t台の出炭であった。この年12月,山本唯三郎は福岡鉱業と木屋瀬採炭を合併して山本鉱業を創立した。大正8年6月,福岡炭鉱第3坑でジンマー式選炭機(40馬力)1台,バウム式水洗機(120馬力)2台の据付けを完了した。さらに翌9年1月には選炭場~桟橋間の馬匹運搬を改め,20馬力エンドレスロープ機を据え付けた。同10年,不況のため姪浜炭鉱では減産著しい状況となったが,翌11年4月1日,姪浜町耕地整理組合と鉱害被害地に対し賠償金6万円を12か年年賦で支払うことを契約した。さらに大正12年,姪浜炭鉱では坑内土砂充填作業を計画し,試験的に開始し1日40坪内外で結果は良好とされた。同13年11月には福岡炭鉱第2坑が浸水のため休止し,昭和2年2月になって取明け工事に着手し,3月末上部四尺層に着炭した。また同年4月26・27日には福岡炭鉱第1坑の坑夫550人が会社側合理化案に反対して交渉。従来の4日目毎の賃金を10日目毎に支払う,4月26日の賃金は5月3日まで延期,緊急事情ある者に限り不定額の現金を支給するなどの会社側提案を全面的に認めて解決した。同4年4月,姪浜鉱業は福岡炭鉱の鉱区を買収し,鉱害賠償の義務を継承することを姪浜町と契約し,同年8月,早良鉱業と改称した。同8年,早良炭鉱は2,223人の坑夫数で28万2,636tを出炭したが,同13年3月27日,それまで三井鉱山の支配下にあった早良鉱業は,日本曹達が株式の譲渡を受けて三井系重役は退陣した。同14年,1,064人の坑夫数で27万8,687tと順調な生産を続けたが,ガス爆発も続発。昭和13年11月11日,坑内ガスがカッタープラグの電気火花に引火して死者8人・軽傷2人を出したのに続いて,翌14年11月24日には本坑でガス爆発による死者8人・負傷者3人を出した。さらに同17年11月2日には天磐亀裂よりガス噴出,コンベアーのスパークが引火してガス爆発が起こり死者25人・重軽傷者4人を出した。第2次大戦末期の状況は,同19年9月末の労働者数2,275人,うち女子は263人,同年度の出炭高は23万2,850t。昭和18年の1人当たり出炭能率は7.7tであった。戦後いったん生産は減少したが,傾斜生産の下で1億4,687万6,000円の得金融資を得て次第に回復,ドッジラインの下で不況による経営困難から,同24年7月24日,鉱員55人・職員20人を人員整理する事態も起こったが,年産規模はほぼ20万t前後を維持した。同29年以降,石炭鉱業をめぐる環境の悪化の中で,同年2月労組は退職金改訂で24時間ストを実施,さらに6月5日には停年制実施による鉱員69人・職員5人の人員整理が行われた。また同年11月には坑木節約のため竹材の使用を始めるなどユニークな生残り策も講じられたが,石炭斜陽化の重圧はいかんともし難く,同33年6月には賃金に関して労組の無期限ストが行われ,翌34年4月の九炭労中小A級6山の大手並み600円賃上げ要求ストは,2波の48時間ストにもかかわらず,15~26円の賃上げで妥結した。このような経過をたどった後,同36年8月22日,早良炭鉱は坑口閉鎖のため鉱員63人・職員13人の希望退職を募集することで組合と交渉妥結し,さらに,10月下旬経営多角化と離職者対策として早良興産を設立,線材加工に着手した。同37年12月27日,早良炭鉱本坑(姪浜町,年産6万3,024t,労働者326人)への石炭鉱業合理化事業団の閉山交付金が決定し,ついで同38年3月23日,早良2坑(姪浜町,年産17万4,999t,労働者957人)への閉山交付金が決定し,姪浜炭鉱以来50年の歴史を閉じた。なお昭和35年当時の鉱区面積は約390万坪であった。




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「角川日本地名大辞典」
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