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島廻炭鉱
【しまめぐりたんこう】


田川郡川崎町と大任(おおとう)町にまたがってあった炭鉱。明治32年10月,宇ノ島に設立された共同石炭商会が,原三郎の所有する大任炭鉱の一部に採掘権を得て無煙炭の採掘を行ったのが始まりである。共同石炭は明治36年頃,石灰焼成用炭を扱って販路を拡張していたが,同年10月,川崎村で寒竹伊作が採掘していた原六郎借区の五尺層無煙炭鉱の採掘権を買収して,杉島育三郎を請負人として採掘させた(筑豊石炭礦業史年表)。同38年11月29日,共同石炭は鉱業部を新設して,原六郎の川崎村鉱区に斤先掘として島廻炭鉱を開き,無煙炭採掘を開始した。同41年6月頃,共同石炭は入交家の独占経営となり,田川郡大任村に直営の島廻炭鉱第1坑を開坑し,さらに同43年,川崎村島廻に藤岡熊弥の請負掘で第2坑を開坑した。その後原六郎の死去に伴って大正2年9月,島廻坑区のうち無煙炭,煽石層が7万5,000円で共同石炭に,有煙炭および大任炭鉱の設備一切が7万5,000円で蔵内保房に譲渡された。同6年5月,川崎村鹿毛谷に尺無坑を開坑したのち,同8年3月31日,共同石炭商会を解消して,新たに共同石炭を設立登記し,資本金,150万円,社長入交太蔵とした。この間大正2年4月,田川郡添田町畑川に斤先権を取得して起行炭鉱を開坑し,初めて有煙炭を採掘したが,同6年12月藤岡熊弥に11万円で譲渡した。また同8年には田川郡弓削田村の横島炭鉱7万坪の坑区の内土間三尺層を,藤岡熊弥と共同で蔵内次郎作から買収したが,のちに明治鉱業に譲渡した。同10年4月島廻第1坑は採掘を終了して休止し,島廻第2坑を第1坑として煽石坑を開坑した。しかし折からの不況の中で10月に一時休止し,昭和4年1月になって掘進を再開したが,無煙・煽石6,587tを出炭したのち,同6年11月,再び中止した。この間大正11年2月1日に島廻炭坑第1坑について藤岡熊弥の請負掘を廃して直営とした旨の記録がある(同前)。島廻炭鉱では昭和6年10月,第1坑の五尺層を終掘したので,同所から切下り坑道を開削して下層の尺無炭の採掘に着手した。また同年12月鹿毛谷尺無層の採掘は中止された。なおこの年6月15日から18日にかけて,組合員7人の解雇から争議が起こり,組合は8時間労働制など12項目を要求した。この争議は翌7年5月,西部鉱山労働組合の指導で再燃し,23日から怠業,さらにデモやハンスト,座り込みの末7月12日,1函8銭値上げで一時解決した。この年10月には川崎町奥谷に第2坑を開坑した。翌8年6月には森田安太郎の請負いで大任村に椎ノ木坑を開坑し,同年8月24日,旧横島炭鉱(後藤寺町)の隣接鉱区を購入して,再び横島炭鉱と命名して開坑した。同10年,共同石炭は本社を若松市に移転,同13年2月には資本金を300万円に増資した。この年6月佐藤益蔵から鞍手郡笠松村の鉱区5万2,000坪を6万円で購入,春日炭鉱を開坑したが,12月になって炭層が採掘済みで事業継続不可能と判って閉鎖した。同14年8月,古河鉱業が大峰・峰地両炭鉱を買収した際,蔵内は共同石炭と共有の島廻鉱区も古河に譲渡したので,以後この鉱区は古河との共有となった。同15年6月29日,島廻第1坑は25日来の大雨のため水没し,9月3日にようやく排水が完了した。同16年9月,共同石炭は福岡の三益煉炭を買収したが,翌17年6月30日,若松市の新社屋に移転するとともに社名を共同石炭鉱業と改めた。この年12万9,257tの生産を上げた島廻炭鉱は,同18年の鉱員1人1か月当たりの平均能率14.8t,同19年の生産は12万794tで,この年9月末の労働者数739人(うち女子192人)であった。戦後の同21年早々に特賞金付きの増炭運動を展開した島廻炭鉱では,傾斜生産の下で共同石炭鉱業として1億655万9,000円の復金融資を得て生産の回復を図ったが,同24年の統制撤廃以後,無煙・煽石も不況となり経営が悪化したため,6月12日臨時夫87人,高齢者87人の人員整理について組合と妥結した。これにより月産平均1万2,000tを8,500tに切り下げたが,さらに11月9日には鉱員1,100人中320人,職員213人中40人,計360人の整理と椎木坑の閉鎖を発表した。その後,朝鮮戦争ブームなどで業績は好転したかにみえたが,同29年の石炭不況で10月,日吉・島廻両鉱で職員22人の希望退職を募ることになった。同30年11月,T・S(戸須)式レオ型水選機を設置したが,石炭斜陽化に伴う経営条件の悪化から次第に労使紛争が激しくなった。すなわち同31年は退職金一部改訂で指名ストと労働協約締結,同32年は出炭賞与復元要求無期限ストと生産能率給増額要求無期限ストおよび福利厚生問題の部分スト,同33年は106人の解雇・配転について72時間ストと12月期末手当無期限ストといった具合であった。この年共同石炭は島廻炭鉱の一部閉山,事業団への買上げ申請を申し込み,翌34年11月18日付けで面積約44万坪,年間出炭量3万144t,労働者数440人の買上げが決定した。この後も同34年10月に臨時夫30人を整理したのに続いて,同35年には島廻合理化案をめぐって紛争が続き,同36年には日吉炭鉱とともに,無期限ストを含む争議にもかかわらず,基準賃金加算額は前年の横すべりにとどまった。この年11月,島廻炭鉱は竹谷尺無層,竹谷五尺層の一部を露頭採炭し,両層を覆っている手選硬・水選硬を処理して低品位炭を回収する設備を完成した。同36年度の出炭は,16万9,736tで年度末人員は807人であった。翌37年3月,島廻炭鉱は鉱員699人中257人の人員整理と,福田坑を臨時夫に切り替えるなどの合理化案を提示,さらに非公式に同40年3月閉山を提案した。福岡通産局の資料では同40年2月現在,694人の労働者で月産1万5,700tの規模を維持していたが,同年8月27日,主力の島廻3坑(川崎町,年産12万9,271t,労働者589人)への閉山交付金が決定,次いで同42年2月24日,残る島廻炭鉱(川崎町,年産5万4,644t,188人)への閉山交付金が決定した。なお同鉱の鉱区は昭和35年当時で約100万坪であった。「郷土読本われらの川崎」によると,同41年11月,オコリ(無煙炭)の島廻,といわれた共同石炭島廻炭鉱が閉山したと記されている。




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「角川日本地名大辞典」
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