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下益村
【しもますむら】


旧国名:筑前

(近世)江戸期~明治8年の村名。筑前国嘉麻郡のうち。遠賀(おんが)川(嘉麻川)両岸の平地とそれに続く山地に立地する。「続風土記拾遺」に,「民居二処に在,本村及成貞也。本村は大隈町に続けり,横町といふ。大隈町の内九日町は,昔下益村の土地也」とある。益の地名の由来は,下益神社(現北斗宮)の御旅所に金の升を埋めたことから起るといい(嘉穂郡誌),中益に対する。戦国期,秋月種実が東部の益富山上に城を構えるが,天正15年豊臣秀吉に攻められて降参した。慶長5年からは福岡藩領になる。黒田長政の治下,益富城(大隈城)は後藤又兵衛基次が居城した。基次脱藩後の慶長11年母里太兵衛友信が鞍手郡鷹取城から移るが,元和元年の一国一城令で廃城になる。天正年間の「指出前之帳」によれば,田16町余・分米207石余,畠5町余・分大豆35石余。村高は,「慶長国絵図」665石余,「正保郷帳」744石余(田674石余・畠69石余),「元禄国絵図」744石余,「天保郷帳」756石余,「旧高旧領」750石余。枝村に成貞村がある(続風土記)。産土神は北斗宮。同宮側に大楠樹があり,周り3尋根本の空虚な所はたたみ8畳程で,「国中第一の大木也」とする(続風土記)。また,寛政年間頃この宮の山から銅の経筒を掘出した。曹洞宗麟翁寺は母里友信を葬る。浄土宗福円寺は鞍手郡宮田村極楽寺の末で,母里友信の母の石塔がある(続風土記付録)。明治初期の人家は本村・福平・成貞・谷・上河原にあり,戸数71,人口327(男165・女162),田38町余・畑12町余・山55町余,物産は柿,正租は米・大豆304石余,雑税は米・大豆9石余と金2円余,池6,牛23・馬3(地理全誌)。明治8年大隈村に合併(県史資料2)。現在の嘉穂町大隈町のうちにあたる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7211725