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承天寺
【じょうてんじ】


福岡市博多区博多駅前1丁目にある寺。臨済宗東福寺派。山号は万松山。本尊は釈迦牟尼仏。仁治3年,博多居住の宋商人謝国明および筑前守護少弐氏などが開基となり,宋より帰朝した聖一国師円爾を開山として建立された(聖一国師年譜)。開堂に際して中国の径山万寿寺の仏鑑禅師から承天禅寺および諸堂の額,諸牌等の大字が贈られた。寛元元年,禅宗の盛行を妬んだ太宰府有智山寺衆徒が当寺の破却を企てたが,これを機に承天寺は崇福寺とともに官寺とされた。宝治2年火災にかかるが,謝国明の援助により再建された。弘安3年に聖一国師円爾が定めた東福寺規式に,当寺は「わが法房なり」と記され,一期の後は白雲恵暁が寺務を伝領すべき旨記している(東福寺文書)。鎌倉期の承天寺は,聖一門下の僧が入宋,帰朝する際の宿坊的役割を果たし,また鎮西における聖一門下の拠点でもあった。白雲以後,南山士雲(永仁6年),直翁智侃(嘉元元年),潜渓処謙(正和元年)など名僧の入寺が相次いでいる。鎌倉期の寺領は,筥崎宮社領の那珂郡野間・高宮・原村などを購入の上,謝国明が寄進しているが,南北朝期には肥前国基肄郡山浦にも寺領を有していた(当寺旧蔵文書,大鳥居文書)。また南北朝内乱期の正平24年,征西将軍宮懐良親王の奉行人饗庭道哲が当寺鈞寂庵に居を定めていたようである(阿蘇文書)。応永7年,承天寺誾公は朝鮮に大蔵経を求めている(定宗王実録)。応安7年以前に諸山,永享8年以前に十刹に叙せられているが,住持が入寺しない坐公文が多かったらしく,永享2年の承天寺規式には,住持の入寺と坐公文の場合官銭20貫文を東福寺へ出すべきことを記している(東福寺文書)。室町中期以後,筑前の支配を強化してきた大内氏が保護を加えている。文明年間,大内氏の筑前守護代陶弘護は承天寺を宿所としており,文明10年には大内政弘が訪れている(正任記)。また文明15年には,復興の助を仰ぐ貿易船を朝鮮へ派遣している(成宗王実録)。さらに天文7年には大内氏の御要脚を免除され,また諸人寄宿の禁止などの保護も得ていた(善導寺文書)。中世末期の寺領は,天文21年大内義長寺領安堵状(承天寺文書)によれば,那珂郡野間・高宮・平原,薬王院・入法寺および肥前国神崎郡内百町地等であった。文禄4年に豊臣秀吉が寺領200石を,慶長4年には小早川秀秋が100石を寄進している。寛文6年から諸堂再建修覆が始まり,同11年仏殿,延宝2年鐘楼などが再建された。寺宝には絹本着色禅家六祖像(鎌倉期),木造釈迦如来及両脇侍像躯(鎌倉期),銅鐘(清寧11年銘の朝鮮鐘)などがあり,いずれも国重文。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7211818