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白垣村
【しらかきむら】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名。筑後国三潴(みずま)郡三潴荘のうち。白垣郷とも見える。文永11年7月1日の筑後守護大友頼泰請文および三潴荘白垣村田畠在家注文写(田部文書/鎌遺11682・11683)に「三潴庄白垣村内弥二郎宗平田畠在家事」とある。両文書によると白垣村における宗平の田地は領家四条家の建長3年惣取帳には34町1反余,弘長3年のそれには23町8反余とあり,本地頭宗平の文永11年5月注文によると宗平は18町9反を召し上げられたという。また白垣西信後家尼念阿,白垣氏明の名もみえるが彼らは白垣宗平の一族で白垣村内に田畠在家を有する御家人であった。さらに井田蓮信も「白垣本名分」として田20町6反余を有していた。正安2年3月鎮西探題北条実政は白垣道念と八院村地頭山代栄との「白垣郷内両堤東 南新田牟田在家」をめぐる相論に裁決を下し,北池以南3町を白垣郷と八院村との堺とすることを命じた(松浦山代文書/松浦党諸家文書)。白垣宗平と道念は同一人であるらしい。この「白垣郷八院堺」については文保2年「道念孫子彦重丸」が越訴したが棄却されている(同前)。永仁4年12月の玉垂宮大善寺神事注文写(隈文書/鎌遺19238)によると,白垣は三潴郡西郷に属し,三潴荘鎮守玉垂宮の5月15日の五月会に村田楽を奉納しかつ相撲人を出し,9月19日の九月会䉼田1町があり,11月中卯日の冬蒸使の祭に1石の米を負担した。貞和3年9月23日高良宮祭料神役村々注文写においてもほぼ同じ内容を負担している(御船文書/南北朝遺2372)。貞和6年10月肥前の板部成基は白垣村内の塚町5反などの地の安堵を請い足利直冬が裏書し安堵した(光浄寺文書/同前2904)。至徳2年9月足利義満は「白垣村東西地頭職」などを勲功の賞として酒見武教に与えた(酒見文書/佐賀県史料集成20)。某年8月4日の大友親世知行宛行状(同前)に白垣村は木付伊豆守が将軍から拝領したが,特別の処置をもって酒見豊後入道に与えるとある。しかし某年7月22日の大友親著知行宛行状では,木付が将軍の御判を帯しているので親著自身の力ではどうしようもない。そこで替地を渡す旨酒見宮内少輔に伝えている(同前)。白垣村の領有をめぐる将軍,筑後守護大友氏,在地の酒見氏との複雑な関係がうかがわれる。永正9年5月大友氏奉行人は三潴郡代宛奉書に於て白垣10町を酒見六郎に打渡すよう命じた(同前)。文禄4年12月豊臣秀吉が立花宗茂領として確定した所領中に「千八拾四石五斗壱升 しらかき村」と見える(立花文書/県史資料4)。江戸期の上白垣村・下白垣村の両村に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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