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新開村
【しんがいむら】


旧国名:筑後

(中世)戦国期に見える村名。筑後国三池郡のうち。文明13年9月10日の筑後国三池北郡新開検見目録帳(阿蘇家文書1/大日古)に見えるが,阿蘇社領としての由緒・成立事情等は不明。同目録によれば,総田数45町,うち定田は32町2杖で,そのほか佃2町・苅上2町・夫米2町・神講田7町・代官給1町から成り,阿蘇社の収取分は,定田年貢米66石7斗5升・佃米16石・苅上米6石・夫米20石の計108石6斗7升5合。公方の収取が納米99石1斗7升5合および段別銭31貫文と屋敷銭8貫50文の計39貫50文,このうち銭1貫文は笠清衛門尉(代官か)給となっている。またこれらを負担する名主として,小宮弾正・小宮式部・弥太郎丸・九郎丸・五郎丸・乙犬丸・蠣塚・浜崎など18名があった。中でも小宮弾正・同式部の両名主は5町以上を保有する豪族的名主である。現在新開地区には弾正屋敷と呼ばれる小字があり,おそらく小宮弾正の屋敷跡と推定される。また弥太郎丸・五郎丸はそのまま今も残り,乙犬丸・九郎丸・蠣塚・浜崎はそれぞれ現在の乙井丸・黒丸・貝殻塚・浜ケ崎に比定できよう。一方,文明~明応年間頃大友政親が田尻恒種に与えた知行地306町の中に新開45町があった(田尻文書/佐賀県史料集成7)。しかし,田尻氏の新開知行は実質を伴わず,「代々御判明白之領地」でありながら「不知行」となっているのは(同前),永正5年阿蘇大宮司惟豊から大友義長に対し,社領新開の安堵についてしばしば要請がなされたためと見られる(阿蘇家文書2/大日古)。天文20年4月17日,大友義鎮は小代親忠にあてた書状(小代文書/能本県史料中世篇1)の中で「新開四十五町之事,心当之子細候条,必連々可申談候」と述べているが,これは天文19年の菊池義武との戦いで三池城攻撃に勲功のあった田尻親種が,不知行地となっている新開の知行回復を意図していたためと思われる。しかしその後新開は大友氏譜代の家臣戸次道雪の知行地となったので,天正2年田尻鑑種は戸次氏に懇望して,12月26日同地を銀3貫200匁の請料で請地化することに成功した(田尻文書/佐賀県史料集成7)。同7年鑑種は大友氏を離れて竜造寺氏に帰順したため,竜造寺隆信は同年6月1日改めて新開45町を鑑種に安堵した(同前)。同15年以降の豊臣政権下では立花宗茂領となり,文禄4年筑後国知行方目録(立花文書/県史資料4)には村高1,532石6斗6升とある。なお天正15年7月1日の蒲池兵庫頭宛浅野長吉書状(蒲池文書/同前5)に「新賀江村」とあるのは新開のことと思われる。近世以降,北新開村と南新開村に分村。現在の高田町北新開・南新開一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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