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新入炭鉱
【しんにゅうたんこう】


鞍手郡鞍手町と直方(のおがた)市・北九州市八幡西区にまたがってあった炭鉱。鉱区総面積887万坪(昭和8年)に達する過程は,絶え間ない買収による外延的拡張の連続であった。選定新入鉱区(38万余坪)は,明治初年,貝島太助が直方町山部で炭鉱事業に従事した際,これに協力した帆足義方がその後海軍予備炭田跡を借区して新入村で炭鉱を興したのが始まりとされる(三菱筑豊炭礦史年表)。明治16年開坑に着手,2年後に深さ130尺の新入竪坑を完成したが,その際蒸気力と機械を活用し,また筑豊で初めて火薬を使用したといわれる(三菱鉱業社史)。その後同18~19年頃,日本石炭会社の三野村利助の手に渡り,さらに同22年3月,近藤廉平に23万5,000円で譲渡された。近藤は当時日本郵船理事で,岩崎弥之助の依頼によるものであった。一方明治19年頃から上新入・下新入および植木・中山にまたがる80万余坪の海軍予備炭田跡に鉱区設定を計画していた元海軍卿伯爵川村純義は,同22年3月,自己名義の選定中山鉱区と植木鉱区の一切の権利を岩崎に譲渡した。こうして同22年三菱の経営となった時に鉱区面積は123万余坪であった。その後同29年2月,植木村瑞穂炭鉱を貝島太助・渡辺惣兵衛から譲り受け,また同月,選定木月鉱区(23万2,000余坪)を機械・建家とも中野寿作から買収した。さらに同年12月に許斐鷹介から直方本洞坑を譲り受けたが,これによって同30年当時,1坑(上新入)・2坑(直方山部)・3坑(新入永田)・4坑(植木瑞穂坑)・5坑(直方本洞坑)を合わせて坑夫数2,289人,ほかに臨時日役・運炭夫などを加えて労働総人員3,500人を抱え,1日平均110万8,800斤(665.3t)を出炭する大炭鉱となった(筑豊炭坑誌)。湧水量が多く,また明治初年からの採掘跡が自然発火するなど変災も多く,同27年3月には坑内火災で18名の死傷者を出すなどの障害もあったが,同23年にわが国で初めてゼリグナイト(ダイナマイトの一種)を使用し,同29年に予算12万余円で1坑に700尺の竪坑開削を始め,さらに同41年上新入で着工した南竪坑に関連して,わが国で初めて大型電気捲揚機を設置するなど,資本力に相応した新技術の採用で生産の拡大を図った。同36年に年産40万t規模に達して,同系の鯰田炭鉱を大きく凌駕したが,同43年に坑夫総数4,340人(うち女子1,194人)で42万余tを出炭し,1人1か月平均採炭高では,鯰田の8.7tに対して8.2tであったと記録される(三菱鉱業社史)。その後も鉱区買収を重ね,明治末年には400万坪に達し,さらに大正6・7年には香月・木屋瀬にまで及んだが,主要稼行炭層である三尺五尺累層中の五尺層および勘々層を,比較的浅い深度で,主に斜坑方式で採掘したので,大正3年にまず5坑が廃坑となり,同8年には2坑・3坑が相次いで閉鎖された。加えて昭和2年には自然発火と坑内増水のため1坑・4坑を放棄したので,生産の中心は大正8年から中山城ケ崎で採炭を開始した6坑と,昭和3年に完成した7坑となった。この両坑は炭層条件も安定し,自然発火・出水も少なかったので,出炭は大正末期の年産50万t台から大きく減ることはなく,不況期を除けば40万t台を維持し,戦時体制下の昭和13年以降は朝鮮人鉱夫の大量傭入れもあって,再び50万t台の生産を保った。第2次大戦末期の同19年,石炭統制会の指示で東邦炭鉱鞍手炭鉱を買収して支坑としたが,戦後の傾斜生産の下でも生産は伸び悩み,朝鮮戦争ブームの同26年の46万余tを戦後最高記録として次第に衰退した。この間6坑・7坑・鞍手坑を坑内連絡坑道で結び,運搬・選炭の集約化を図ったが能率の改善ははかどらず,逆に広大な鉱区による長年の操業から,鉱害補償の負担が増加した。さらに政府石炭調査団による石炭スクラップ政策とあいまって,同37年2月鞍手坑,同38年4月6坑を終掘,さらに同年10月には7坑も終掘し,10月21日に約80年の歴史を持つ新入炭鉱は閉山となった。最盛期に5,000人以上の労働者を擁した同鉱で採掘された石炭の総量は,およそ2,678万tで,最高は昭和元年の約57万5,000tであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7212002