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勢得名
【せいとくみょう】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える名(みよう)の名。筑後国上妻郡広川荘のうち。天福2年2月日の坂東寺所役注文案(岡本文書/鎌遺4623)に広川荘707町余を構成する名の1つとして「勢得名八十町一反」と見え,倉員名143町の次に大きな面積の名であった。荘の鎮守社造営料として24貫30文(反別30文)の分銭を負担するほか,鎮守社の祭に際し流鏑馬10番のうち9番,相撲10番のうち9・10番の左方,八女8番のうち5番,馬長1人,駕輿丁2人,男舞1人などの負担があった。その際饗膳212前のうち南勢得・北勢得が各5前とあり,勢得名は南北に分かれていたようである。嘉禎3年9月28日の公文所下文案によれば荘鎮守社の釘貫役として鳥居より東方30間のうち4間が課せられており(同前/同前5180),寛元3年10月6日の筑後広川荘鎮守神役支配状案では鎮守社の公文屋造営の負担をしている(同前/同前6566)。宝治2年9月13日鎌倉幕府は上妻荘内蒲原次郎丸地頭主殿助泰房と名主吉田能茂との相論に判決を下したが,その1条に「勢得名」9町1反余の事があった。これについて幕府は十分な審理を尽くしていないことを理由に判決を留保している。上妻荘内の地頭と名主の支配が勢得名にも及んでいたことを示している(室園文書/同前6998)。元弘4年2月9日の広川荘荘官等連署状によると,荘官の内惣公文が南勢得に,田所が北勢得に住していた(岡本文書/水田荘広川荘史料)。明治15年字小名調(県史資料8)に一条村の字として見える「盛徳」,現在の広川町一条字盛徳が遺称地である。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7212157