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瀬下町
【せのしたまち】


旧国名:筑後

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は久留米城下の1町。瀬ノ下町とも書く。城の南西方に位置する筑後川左岸の川港で,他の城下各町から離れて立地する。町名は,川底の巨岩が瀬をつくる下流の意味による。正保2年,上流部の川港の洗切が藩水軍屋敷になったため,三潴(みずま)郡大石村内に新しく町割りがなされ,町民が移住して成立(石原家記)。浦役負担義務をもつ町で,一般の公役は免除された。「延宝絵図」によると,当町域は通町・浜町・横町・裏町からなり,通町筋には円乗寺・正蓮寺・西岸寺がある。また通町には庄屋町の異称があり,寛文10年頃まで領内大庄屋が藩命で住居を構えていた。上浜には藩の米蔵があり,下浜には廻船問屋・船宿などが立ち並び,文政年間には藩札発行を扱う銀会所も置かれた。領内出入の物資は川船で瀬下港から河口の若津港へ運ばれ,海船に積みかえられた。宝永年間の家数は,通町67,浜町54,横町59,裏町49(啓忘録抜萃)。安永年間の町間数は,それぞれ3町46間,4町15間,2町,1町34間,ほかに裏町横町34間(筑後志)。町別当は,ほぼ江戸期を通じて浜町の渡屋掛りに属す(久留米市誌)。享保2年・享和元年に大火があり,両度とも約150軒が焼失した。対岸の長門石村との間に船渡しがあった。上浜の北続き地に町の鎮守社で,慶安3年に鎮座した水天宮があり,水難除の神として広く知られ,5月の川祭りは盛大であった。幕末の尊王家真木和泉は同社の神官であった。明治8年瀬下小学が開校。同11年の戸数454・人口2,110。同22年久留米市の町名となる。同23年の九州鉄道(のちの国鉄鹿児島本線)開通以後,陸上運輸の発達により,港は衰退した。名物の豊後日田木材の筏も筑後川夜明ダムの完成で浜に着かなくなった。大正14年の戸数418。昭和20年の戦災で通町の一部が焼失。同57年の世帯数448・人口1,424。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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