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大分廃寺塔跡
【だいぶはいじとうあと】


7世紀後半頃に創建された寺院の塔跡。嘉穂郡筑穂町大分字塔床に所在。国史跡。県中央部を南北に走る三郡山地の東山麓にあたり,遺跡は大分集落の東方約100mの耕地の中に位置する。道路脇の,周囲より約1mほど高い土壇の上に,塔心礎を中心とする合計17個の礎石がほぼ原位置を保って遺存するが,この塔は柱間が約8尺(約2.42m)等間の三間四面に復原される。その礎石はいずれも花崗岩製で,それぞれに円形の柱座が造り出されている。心礎以外の礎石は柱座の径が約70cm程度であるのに対し,心礎のそれは約150cmという大きなものであり,中央部には径約82cm,深さ約9cmの円形柄穴が設けられ,それから外方に向かって2本の溝が切られている。この塔跡の南方には大門という通称地名が残り,かつては,北方で古瓦の散布が見られ,西方の耕地の中には大きな礎石が存在していたとも伝えられる。これらの伝承にもとづき,西方の礎石が金堂のものであったとすれば,この寺院の伽藍配置は,塔と金堂とが東西に並ぶ法起寺式であったことになり,また,かなりの規模を有していたと考えられる。これまで本格的な発掘調査は行われていないが,古瓦類などの関係遺物が採集され,その瓦の中には,田川市所在の天台廃寺など豊前地方の諸廃寺跡出土の瓦と同類の新羅系と呼ばれるものが含まれている。当時のこの地方は穂波郡に属し,大宰府から豊前国府に通じる官道に面していた。これらのことと,穂波郡司の中に穂波吉志氏という渡来系氏族の名が見えることや,豊前地方には多くの新羅系渡来人が居住していたことなどを考え合わせれば,官道を通じ,彼らを媒介とする豊前地方との文化的交流の中で,当寺の建立にあたって各種の影響を受けたことが推測される。当寺本来の名称は確定できないが,天慶3年3月23日付の筑前国美作真生等治田売券案(平遺247)に「大分寺」の名が見え,現行の大字名とも一致しているので,それが当寺の名称であった可能性は大きく,少なくとも10世紀中葉まで存続していたことにもなるが,ほかには徴すべき文献史料も見られず,廃絶時期などの具体的なことについては全く不明である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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