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筑後国衙跡
【ちくごこくがあと】


奈良期~平安期の筑後国10郡を管治した地方官衙の跡。久留米市合川町の枝光地区に所在。この地は筑後川の中流左岸にあたり,耳納山地西端の高良山から延びる低位段丘上に位置する。国府の所在地は,「和名抄」には御井(みい)郡とあるが,近年,具体的な位置について三遷説が提起されている。江戸中期以降,「北筑雑藁」など筑後国関係の地誌類が相次いで編纂され,それらはいずれも高良山西山麓の宿場町である府中(久留米市御井町)付近を国府跡に擬定している。それに対し,江戸末期の久留米藩士で,筑後古代史の研究に大きな足跡を残した矢野一貞は,綿密な地名考証から枝光地区の字古宮(ふるごう)が古国府の転じたものと論じ,さらに古瓦出土地などをも考慮して国府跡に比定した。その後の国府研究はこの枝光説をふまえて展開され,様々な観点から妥当性を証明してきたし,中でも枝光地区のほぼ中央部に位置する字阿弥陀地区を古瓦の散布状況から国衙跡の主要部とみなしてきた。このような枝光説を決定的なものにしたのが近年の発掘調査である。まず昭和36年に九州大学が阿弥陀地区で発掘調査を行い,東西に走る築地跡や多量の瓦類,円面硯など官衙的な色彩の濃い遺構・遺物を検出した。これによって当地が国衙跡の一部と推定されたが,この時は調査面積も限られていたので,その具体的な構造などを明らかにするまでには至らなかった。昭和47年以降は久留米市教育委員会が継続的に発掘調査を実施し,特に阿弥陀地区の東南約150mにあたる字風祭地区および東接する字ギャクシ地区一帯では,築地や溝で区画された多数の建物跡を検出した。多量の土師器や須恵器のほか,陶硯類・墨書土器・輸入陶磁器・石帯などの遺物を伴っており,これらの建物は国衙を構成する官衙群とみなされている。また墨書土器の中に「守第」と判読できるものがあり,建物の中に国司館が含まれていた可能性も指摘されている。しかし,政庁跡はいまだ確認されておらず,国衙の構造についてはなお検討すべき点が少なくない。出土遺物からこの官衙は8世紀前半から10世紀前半にかけて営まれ,火災に遭って廃絶したようである。調査担当者は天慶4年の藤原純友の乱による焼失の可能性を指摘しているが,史料的には確認できない。なお,中世末に成立したと推定される「高良記」(高良大社蔵)によると,「初メノ苻」は朝妻(御井町字朝妻)の下に所在していたが,延久5年に「今ノ苻」に移転した,という。このことから,国衙は10世紀中葉に枝光地区から朝妻地区に移転し,さらに「今ノ苻」に移転したと考えられ,「今ノ苻」とは,朝妻の東南方にあたる御井町字横道所在の横道遺跡に比定され,ここでは11世紀後半頃から整然とした計画的配置を持つ建物群が営まれていたことが確認されている。宮内庁書陵部所蔵の仁治2年6月1日付「筑後国交替実録帳」(鎌遺5876)には国府院に関する記述が見られるが,枝光地区における検出遺構との年代的隔たりは大きく,これは横道遺跡に関するものとみられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7212662