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月隈
【つきくま】


旧国名:筑前

(中世)鎌倉期から見える地名。筑前国席田(むしろだ)郡のうち。「古今著聞集」によると,嘉保2年大宰権帥源経信は赴任途中蓆田駅で観月のため邪魔になる槻を切ったというが,貝原益軒はこの槻があった所が槻隈で,後に訛って月隈になったという(続風土記)。南北朝期の観応2年の9月28日,鎮西管領一色氏方の攻撃をうけた少弐頼尚,足利直冬は大宰府原山から出て席田郡月隈で両軍は激突した。足利直冬はこの月隈合戦で忠節を致した肥前の深堀弥五郎に感状を出し(深堀文書/南北朝遺3219),三村高家の軍忠状などにも月隈合戦のことが明記されている(同前/同前3237・3238)。また豊後国の野上広資も月隈の合戦で活躍し,軍忠状を出し,11月29日には足利直冬から月隈合戦の忠節に対して感状をもらっている(尾張家文書通覧1/南北朝遺3271)。月隈・金隈合戦をめぐる武将の動きがよくわかる。戦国期になると天正8年立花山城主立花道雪(鑑連)は席田郡の士庶を支配しつつ月隈村一貫古野山に出向いて「切り寄せ」(簡単な砦)を築くことを命じ,ここの守備を筥崎宮座司に命じ,一番30人宛の五交替制でここを守らせることにしたが,負担が大きいとの座主の申し出があり,道雪はその一部分を蓆田給人に仰付けている(豊前覚書)。なお,天正年間の「指出前之帳」では「上月隈村」と「下月隈村」に分かれており,上月隈村は田70町余・分米791石余,畠19町余・分大豆109石余。下月隈村は田100町余・分米1,266石余,畠10町余・分大豆61石余。現在の博多区板付1~7丁目・板付・上月隈・下月隈一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7212781